こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

【井伊直弼の変貌】

 

前回の終わりで井伊大老の違勅調印を抗議するため不時登城した徳川斉昭(水戸)、徳川慶勝(尾張)、松平慶永(越前)の対する処罰が下されたお話をしました。

一橋慶喜は水戸出身ですから幼少から水戸学を学び、尊王思想の影響を色濃く受けていたため朝廷を敬う気持ちは人一倍強く持っていました。慶喜からすれば、勅許を得ずに条約調印した井伊の独断は天皇に対し不敬であり、その報告を「宿継奉書(しゅくつぎほうしょ)」で済ませることは朝廷を軽視する行為に等しいという考え方を持っていました。大老か老中が京都に行き天皇に直接説明に赴くべきで、このままでは将軍が違勅の罪に問われることになるではないかと慶喜は抗議したのです。若くとも将軍候補者としての見識を備えた慶喜の主張にはそれなりに筋が通ったものでした。

 

 

一方、斉昭、慶永らは違勅調印の責めを問うという大義名分がありましたが、その意図は井伊を大老から引きずり降ろし、決定済みの将軍継嗣問題を蒸し返して慶喜を将軍に就けることを狙ったものでした。とりわけ斉昭は自分の息子を将軍にする野望を実現させるための行動でした。

徳川将軍の後継者を決めるのは将軍自身であって、それ以外の者がいくら非常時とはいえ、自分の息子を将軍に就けよと申し出ることなどこれまでにはあり得ないことでした。

慶永は井伊大老に会うと違勅調印であると厳しく責め立てましたが、井伊は動じることなくぬらりくらりとかわしました。

 

同じ日、斉昭は長男で水戸藩主の徳川慶篤(よしあつ)、尾張藩主の徳川慶勝と共に登城し井伊に面会を求めました。ですが抗議をするための十分な打合せも行わず、ただ怒りに任せての登城では井伊を言い負かすことなどできようはずがありません。井伊は彼らを午後3時過ぎまで待たせた上で、ようやく面会に応じました。しかし井伊大老の前では旧・現藩主の抗議も何ら功を奏することはありませんでした。

 

 

(井伊直弼)

 

井伊直弼はこう考えていました。

もともと徳川幕府はこの国の政治に関する責任者であり、二百六十年間、幕府は専断的に政治を行ってきた。ですから本来、開国も外国との条約締結もいちいち天皇の許可を取る必要はない(三代将軍家光も鎖国を決定した際も朝廷に許可を求めていません。今外国と敵対し戦争に及べばこの国が隣国清と同じようになってしまう(敗戦し領土割譲を求められる)かもしれない。それを避けるためには、開国し外国と通商条約を結ばねばならない。朝廷から今も調印の許可は得られていないが、調印までのタイムリミットが来てしまった以上、自身が無勅調印の責めを甘んじて受ける覚悟をするしかない、と。

といって直弼には朝廷を無視する考えはありませんでした

井伊家は藩祖依頼、徳川軍の先鋒の任務を引き受ける家柄で京都に隣接する近江国彦根を領国としており、京都守護を代々受け継ぐ役目を負っていました。直弼は御所が火災で焼けたときに幕府に願い出て五万両を献じているくらいですから朝廷を軽んじる気持ちが微塵もなかったことは明らかです。

 

 

斉昭との会談終えた後、井伊は「さしたる事にもあらず。老公、老公(斉昭のこと)と鬼神のごとくいっているが、思いのほかなんのこともなし」と感想をもらしています。やはり井伊の方が斉昭らより役者が上だったということなのでしょう。全く勝負になりませんでした。

譜代大名の筆頭として将軍家定から託された徳川家を頂点とする政治支配体制をいささかも揺るがすわけにはいかないという強い信念が井伊直弼を支えていました。

その使命感と覚悟は余人の及ぶところではなかったのです

 

 

【孝明天皇、戊午の密勅を下す】

 

井伊は条約調印前後の大老職に就いたばかり時期には衆議に従うという姿勢がありましたが、この頃から違う姿を見せ始めます。日米修好通商条約では調印の権限を岩瀬と井上に委ねる判断を自身がしたことで違勅調印の責任を問われ、朝廷、諸大名、攘夷派から一斉に非難を浴びる身にあることを深く井伊は自覚していました。混迷した政局を打開し徳川政権をこれからも存続させるためには、たとえ剛腹な独裁者と言われようと大老として強権を発動することも辞さずと肚を固めたのです。

 

まずは無断で登城した斉昭らを罪に問うことにしました。各大名は江戸城に上がる日は決められていましたから、不時登城つまり勝手な押しかけ登城は認められていませんでした。これを罪として井伊は慶勝と慶永に対しては「隠居謹慎」処分(徳川斉昭はすでに藩主ではなかったため謹慎のみ)をしたのです。「隠居」は藩主の座を降りろという意味ですし、「謹慎」は文字通り屋敷から一歩も出ることが許されないため行動の自由を奪われることになります。

実力者で徳川家と関係の深い大藩の藩主に対して随分と思い切った処分命令を出したものです。この時の沙汰書には「台慮により」という言葉があります。つまり将軍様のお考えにより処分を申し渡すということです。この沙汰が下された翌日に徳川家定は亡くなっているため、果たして将軍の意思であったのかどうか。井伊の独断であった可能性は大いにあります。

 

 

安政の大獄は、条約調印と将軍継嗣の両問題に対し井伊大老が推し進めた政策に反対する水戸藩と一橋派に対する弾圧事件で、この大獄で処罰されたものは百名以上に及びました。

その引き金となったのは、安政五年(1858年)8月8日に朝廷から水戸藩に下された「勅諚(勅書)」です。「勅諚」というのは天皇の意思を示す命令のことです(この時の天皇は孝明天皇)。これは「戊午(ぼご)の密勅」と呼ばれています。

 

 

本日はここまでとし、この密勅についてのお話は次回に譲るとしましょう。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

【参考文献】

・「徳川慶喜」     松浦 玲  中公新書

・「岩瀬忠震」   松岡 英夫 中公新書

・「大久保一翁」  松岡 英夫 中公新書

・「幕末史」    半藤 一利 新潮社

・「幕末政治家」  福地 桜痴 岩波文庫

・「幕末閣僚伝」  徳永 真一郎 毎日新聞社

・「井伊直弼は本当に『悪人』だったのか 国内の矛盾を背負い込んだ

  『悲劇の政治家』」 母利 美和 歴史街道2018年7月号