こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。
前回、中国で起きた「アロー号事件」の情報が幕閣にもたらした影響の大きさについてお話しました。今回はその続きです。
【ハリス、熱弁を振るう】
将軍家定と対面した数日後、ハリスは老中堀田正睦(ほった まさよし)に会い、開国通商の必要性を説き、長時間に亘って熱く語りました。当然、アロー号事件にも触れました
ハリスは巧妙でした。この事件を引き合いに出し、「清国との戦が終われば次にイギリスとフランスが向かうのはきっとこの日本だ」と幕府の重臣たちの恐怖心を煽ったのです。さらに、
「イギリスもフランスもロシアも日本との通商を求めており、とりわけイギリスはもうすぐ大艦隊を引き連れて江戸湾に侵入してくることでしょう。幕府が要求を聞き入れなければ直ちに戦端を開くつもりに違いありません」とのっぴきならない言葉を投げかけてきました。
こうして十分に堀田を始めとする老中らの不安と恐怖を掻き立てた上で最後にこう告げました。
「日本がアメリカと通商条約を結ぶのなら、私(ハリス)がイギリスとフランスにこう掛け合ってあげましょう。アメリカは日本と条約を結んだから、貴国らも同じようにされよ、と。そうすれば戦争になることはないでしょう。ですから貴国は早く我が国と通商条約を締結するのが一番賢明な選択というもの。そうではありませんか」と。
勝負あり。堀田正睦や他の老中らにこの国に対する欧米諸国の侵略を防ぎ、戦争を回避するにはそうするしかないと思わせるのに十分な説得でした。
これ以上、ハリスとの条約交渉を引き延ばすわけにはいかないと判断した堀田は目付岩瀬忠震(ただなり)と下田奉行井上清直(きよなお)を全権として条約交渉に当たらせます。安政四年12月11日から翌年1月12日までの期間における交渉は、幕府の記録文書では実に13回に及びました。
この間の両名の奮闘ぶりには目を瞠るものがありました。
「綿密に逐条の得失を審議し、そのために条約の草案は塗りつぶされ」、徹底的に手直しを加えられ、「主意をさえも移動させたことがあったほどであった。」
これは明治になって岩倉使節団がハリスを訪ね、往時を振り返ったときの田辺太一の談話です。
また幕臣で明治以降、ジャーナリストとして名を上げた福地源一郎(桜痴、おうち)は自身の著書(『幕末政治家』))にハリスとの談話の中で岩瀬のことをこう取り上げています。
「岩瀬等は、その条項につきハルリスの説明を聴くと同時にその得失を論じ、その中にも岩瀬の機敏なるや論難口を突(つい)て出て往々ハルリスをして答弁に苦しましめたるのみならず、岩瀬に論破せられてその説に更(あらた)めたる条款も多かりしとは、これ余が後年米国において、親しくハルリスに聞きたる所なれば、以て岩瀬が才器を知るに余りありとす。」
このように岩瀬はハリスの説明を聴くと明敏な頭脳で鋭く論破することもあり、ハリスが返答に窮する場面もしばしばあったことが語られています。
岩瀬忠震は自身が学んだ昌平坂学問所で表彰を受けたことがあり、成績優秀であったといわれていますが、勝のように蘭学を学んだわけではありません。
ですが岩瀬は同時代を生きた複数の幕臣からも高く評価される程、当時の幕府官僚の中でとりわけ群を抜く特別な存在でした。
岩瀬の非凡さは、欧米の法律や交易上のルールに関する十分な知見を有しないにもかかわらず、交渉の場で外交に習熟した欧米人に臆することなく相手の主張に謙虚に耳を傾け合理的に判断し、反論すべきは反論するという精神の持ち主であったことです。
岩瀬忠震
さらに言えば当時の日本が欧米列強から他のアジア諸国のような侮りを受けることがなかった一つの理由は、岩瀬を始めとする有能な幕府官僚群の存在を抜きにしては語れません。こうした事実が日本の歴史にあったこと、おかげでどれほどの幸運がもたらされたのかを現代を生きる日本人に知ってもらうことがこのブログを書く目的の一つです。
【条約の内容】
日米修好通商条約は十四条からなる条約ですが、ハリスが最もこだわったのは自由貿易でした。第三条では、先の和親条約で決められた下田、箱館の他に神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)を開港し自由貿易を行うことが定められています。また日米修好通商条約が結ばれると蘭・露・英・仏の四カ国とも同様の条約が締結されます(「安政の五か国条約」)が、この条約には他の四カ国にはない特別な条文があります。それは第2条です。日本が各国との間で問題が発生した場合にはアメリカが仲介に入るというものです。ハリスは幕府に説明したことを約束事として条文化したのです。
この条約は後に「不平等条約」として明治政府から批判を浴びることになります。皆さんも学校でそう習ったご記憶がおありでしょう。ですから今も『日米修好通商条約=不平等条約』というイメージが植え付けられているのではないでしょうか。
不平等な条項が含まれていることは確かなのですが、当時の日本が置かれていた国際的な環境について論ずることなく不平等条約と一言で片づけられてしまうなら岩瀬や井上の奮闘努力や幕府が亡国の危機を回避するために決断を下した意義は空しくなってしまいます。岩瀬らがいくら有能であったとしても国際社会における外交についての十分な知識と経験を持ちようがなかった鎖国下のハンディを抱えていたことは明らかです。そのことを考えればその責めをすべて彼らだけに背負わせるのは妥当性を欠くというものではないでしょうか。弱肉強食がまかり通っていた当時の国際社会への参加を余儀なくされたビギナー日本にとっては痛みを伴った学びの時間が必要でした。不十分さがあったことは否めませんが、不平等のツケを当時の彼らの責めにだけに帰するというのはあまりに酷というもの。
後に明治政府は不平等条約改正への国内の気運を高めるため徳川幕府の落度を声高に責め立てました。そのため本来の通商条約の意義よりも不平等という側面のみがイメージとして定着してしまったのです。
ちなみに不平等とされた項目とは、①関税自主権がないこと、②領事裁判権(※)を認めたこと、③和親条約にあった片務的最恵国待遇が引き続いて認められた、ことです。
さて本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
※領事裁判権…外国人が国内で罪を犯しても日本の法律に照らして裁くことができないことをいいます。これだけを取り上げるといかにも不平等に見えますが、当時このような判断をしたのは、外国人を日本が処分を下すことで外交問題に発展してしまう懸念があったためです。むしろ相手国に引渡し委ねることで無用のトラブルを避けるという意味もあったと思われます。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「岩瀬忠震」 松岡 英夫 中公新書
・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書
・「幕末史」 半藤一利 新潮社
・「幕末政治家」 福地桜痴 岩波文庫