こんにちは、皆さん。

歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 

勝が痛恨の体験航海をして間もなくの頃のことです。伝習所所長の木村喜毅(よしたけ)には、幕府から翌年春に勝麟太郎ら旧伝習生をコットル船で江戸へ帰府させよとの方針が伝えられていました。木村からその方針を聞かされたカッテンディーケはまだ無理だと判断しました。コットル船は帆船です。蒸気機関を積まない帆船の方が蒸気帆船より高度な操船技術を必要とします。伝習生だけで帆船を操船して江戸に帰り着くにはまだまだ訓練不足でした。

木村の要請を受けたカッテンディーケは航海訓練を繰り返し行いました。

 

 

【鹿児島訪問 島津斉彬との出会い】

 

安政五年(1858年)3月、カッテンディーケの指導の下、遠洋航海訓練のために勝ら伝習生一行は平戸に向けて出航しました。平戸への航海後、下関で停泊中に勝が鹿児島行きを提案し、カッテンディーケがそれを了承し一路、鹿児島に向かいます。

3月15日、一行は鹿児島山川港に着きました。このときの薩摩藩主といえば「西郷どん」で渡辺謙さんが演じられた、あの島津斉彬(しまづ なりあきら)です。この当時だけでなく江戸時代を通じて名君中の名君と言われる人物です。

 

 

 (島津斉彬)

 

長崎海軍伝習所の訓練船が山川港に入港したとの報が入ると指宿温泉に療養に来ていた斉彬は大いに喜び、馬に乗って駆け付けます。

翌16日、斉彬は咸臨丸を訪ね乗艦します。幕末、最も開明的な藩主と称されたこの薩摩の太守は、勝らの伝習生一同とカッテンディーケ率いるオランダ海軍士官たちの出迎えを受け、国内初のスクリュー船の艦内を案内されつぶさに見学します。その後、船内で朝食が用意され艦長役の勝、伊沢謹吾とカッテンディーケは斉彬と席を共にします。

このとき幕府の目付役の二人が付き添っており、カッテンディーケは勝から藩主との会話には注意をするように促されたとその著書(『長崎海軍伝習所での日々』)の中で告白しています。薩摩への強い警戒感を持っていた幕府からすれば薩摩藩を探索する絶好の機会です。そのことを知っていた勝は慎重な言動をカッテンディーケに求めたのです。

 

 

その後、斉彬は下船し勝やオランダ士官たちを乗せた咸臨丸は鹿児島に向かいます。鹿児島に上陸した一行は、斉彬から勧められた工場や反射炉などの施設や砲台を見学します。工場では近代的な技術や器械が導入されており、薩摩切子などの工芸品の生産が行われていました。

斉彬は幕府の意図を見抜いていました。そのため先手を打って薩摩の実態を自ら進んで包み隠さず薩摩の現状を見せることで幕府に対し反意がないことを示したのでした。

 

カッテンディーケは鹿児島を見たときの感想を

「鹿児島は我が想像していたような小さな町ではなく、人口四、五十万を算(かぞ)える日本国中の大都市の一つであることを知った時の我々の驚きといったらなかった。鹿児島の備えは行き届いている。そうして時世に遥かに先んじている主君の統治下にあるのだ」前掲書)と述べています。

また薩摩人がつくった不完全な出来の蒸気機関を見たとき、カッテンディーケはこんな感想をもらしています。

「一度も実際に見たこともなくして、ただ簡単な図面をたよりに、この種の機関を造った(薩摩)人の才能の非凡さに、驚かざるを得ない」と。

 

 

同月18日、咸臨丸は山川港に戻りました。正午頃、再び斉彬が訪ねて来て夜9時頃まで咸臨丸に滞在しました。この時の様子について、

「藩侯(斉彬)は非常に満悦の態であった。何となれば我々は、少しのお世辞もなく、見た物すべてについて驚嘆させられたと言ったからである。彼はオランダ士官のほかに、日本人艦長役二名(勝と伊沢)をも船内に設けた祝筵(宴)に招いた。その時には、目付役は陪席していなかった。それ故何の遠慮もなく、凡(あら)ゆる事について話すことができた」

とカッテンディーケはその著に愉快な思い出を書き留めています。

 

斉彬は砲台や薩摩藩で試作していた蒸気船について遠慮なく意見を聴かせて欲しいと申し出、オランダ人たちからアドバイスをたくさんもらいとても喜びました。

その時のやり取りはカッテンディーケによると、

「オランダ士官は一人ひとり藩侯に招かれて、広汎な話題にわたって談話を交わし、一々その所見について、忌憚なき意見を求められた。松木弘庵(松木弘安、斉彬の藩医で後に寺島宗則と名を改め、明治政府で外務卿を務めた)は、それを残らず書き取った。…(中略)…そうして松木の質問は、我々の一人が返答に窮したくらいにむずかしかった」(前掲書)

とあります。当時の薩摩藩の殖産興業における知識レベルと技術水準の高さをうかがわせるに十分なエピソードです。

 

 

勝はこの鹿児島訪問で島津斉彬という大藩の藩主から幕府海軍のエキスパートとしての知遇を受けました。幕府と藩という立場の違いを超えて国事を大いに論じ、開国と海防に関する意見を聴き、自らの考えを述べ、すっかり意気投合したと言われています。さぞ勝は斉彬から自分が認められた喜びに満たされていたに違いありません。

勝がこうした待遇と栄誉を受けることができたのは、海軍伝習の幹部として鹿児島の地を訪れ、斉彬も受入れねばならない事情にあったからです。本来なら勝の身分は小十人組で徳川幕府の組織上では末端中の末端に過ぎません。片や七十七万石の太守であり、江戸にいれば同じ場で顔を突き合わすことさえあり得ぬ間柄です。しかし斉彬は勝を日本の未来を共に語るべき人物として遇しました。

前年、勝が江戸に帰らず長崎の地に止まる決意をしなければ、島津斉彬からこのような知遇を得ることは決してありませんでした。

あの時の苦渋の決断は、勝の政治的な視野を拡げるだけでなく人間的な成長にも大きく貢献することとなったのです

 

 

さて本日はここまでとしましょう。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「長崎海軍伝習所の日々」 カッテンディーケ 東洋文庫 

・「現代視点 勝海舟 戦国・幕末の群像」 旺文社