こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。いつもお読みいただき心から感謝いたします。
安政四年3月、永井尚志と一期生一行が江戸に帰府した後、伝習所ではこれまでの伝習の進め方が改められました。
七曜表が取り入れられ、曜日ごとの時間割で授業科目が決められました。午前、午後共に一時間ずつ授業時間が短縮され、日曜日は休講となりました。また同年5月、一年前から造船作業を始めていたコットル船が完成し、観光丸に代わる伝習生の訓練船として使用されることになりました。
立場上ペルス・ライケン団長と接触する機会が多かった勝は、伝習の合間を見て二人で長崎市内を何度も散策することがありました。その度に勝はこのオランダ人から西洋の色々な話を聴くことに務めていました。
すでに親密な師弟関係となっていた両者の間で語られたことは、当時の世界情勢や西洋の政治体制のことだけでなく宗教や文化風俗などの話題にも及びました。帰国後、海軍大臣となるこのオランダ海軍の士官は蘭語で勝に対し熱心に海外で起きている情報を伝えました。
勝にとってこうした時間を過ごした長崎時代は、軍艦指揮官として育成される期間となっただけでなく、当時の日本人の中で誰よりも早く国際感覚を身につけるという得難い経験を積む期間にもなりました。
勝は幕末期、「世界の中の日本」という視点を持ち続けた政治家として独自の道を歩むことになりますが、その原点は長崎海軍伝習所時代にあったのです。
日本を去るに当たりペルス・ライケンが勝に送った手紙が残されています。その中でこのオランダ海軍士官は、日本人に海軍の指導するために日本に渡った二年の歳月を振り返っています。熱心に学ぶ伝習生に対し、「日本人至極優美にして勝れて好学なるを知ること久し」と褒め言葉を送っています。
また「これまで日本人は外国と関係を持つことが少なかったため今は学術面で劣ってはいるが、自分が思うに、今後外国と交際するようになれば必ず西洋の国民と同水準に到達するであろう。いやそれを上回ることも容易だろう」と持ち上げています。
ペルス・ライケンは永井尚志が江戸に戻る前、日本からオランダに留学生を送る計画があるとの話を聞かされており、勝がその候補者であることは悦ばしいと喜びを述べ、勝を励ましています。その頃そうした話があったのでしょう。
また勝のことを「学術に於いて君の勉強、君の怜悧はよく知れり。君の蘭学と、また彼の任を受けたまうべきは顕然なり」と優秀な頭脳を持ち諸事を適切に片付けていく勝が留学生として選ばれるのは当然のことだと激賞しています。
ペルス・ライケンらの第一次教師団は、安政四年(1857年)9月16日、長崎の地を後にしました。彼らを見送る勝ら残留した伝習生の胸には彼らへの感謝と別れを惜しむ想いが溢れていたに違いありません。
【オランダへの発注軍艦来たる】
安政四年8月5日、交代の第二次教師団を乗艦させた軍艦ヤッパン号が長崎港に入港しました。ヤッパン号は幕府がオランダに発注した最新式の3本マストを備えた帆船で、蒸気機関と砲12門を装備するわが国初のスクリュー船でした。この艦はやがて歴史に名を遺(のこ)すことになります。この艦とは皆さんよくご存知の『咸臨丸』です。「咸臨」の名は、君臣が相親しみ心を一つにして事に臨むという意味で易経から取って命名されたものです。
(伝 咸臨丸 ウィキペディアより※)
ペルス・ライケンの後任で第二次教師団の団長として派遣されたのはカッテンディーケという名前のオランダ海軍中佐でした。新任の教師団の一行は三十数人に上りました。
第二次教師団による授業は、この二カ月後に新たに派遣される伝習生の到着を待って始められました。
第二期生として江戸から送り込まれた新たなメンバーは26名で、その中には医者の松本良順や造船技術者の赤松則良(通称、大三郎)の名が見えます。良順は教師団の一人で軍医のポンぺから医学伝習を受け、西洋式病院と医学校の設立に力を尽くし、赤松は明治以降、政府に出仕し海軍中将となります。なおオランダ軍医のポンぺは伝習所廃止による帰国命令を受けた後も日本に残留し、医学の教育指導に当たり日本の近代医学の発展に貢献したことでも知られています。
伝習課目は第一期生と第二期生とでは微妙に異なっています。一期生に対しては航海術や測量術などの操船運用のための課目が重視されています。その理由の一つは艦長候補者と船の運用方の育成にあったからです。一方、二期生が学ぶ課目は造船や蒸気機関などにより重点が置かれおり、造船や機械をつくるための技術者養成を意図していたためと思われます。
【新たな伝習所所長との微妙な関係】
初代伝習所所長であった永井が江戸に去った後、しばらくの間は長崎在勤目付の岡部長常が二代目に就きましたが、この年(安政四年)の5月には三代目として木村喜毅(よしたけ、摂津守。号は芥舟(かいしゅう))が伝習所の責任者としての業務を引き継ぎました。
勝は木村のことを海軍歴史では好意的な人物として書いています。
「此の人温厚にして能く衆言を容(い)れ、威権を張らざるを以って、多人数たりと雖(いえど)も内に紛擾の憂なく、皆其の所を得たり」
木村喜毅は後に勝が咸臨丸で渡航するときに共に米国に行くことになる人物です。
勝はこの人とはどうやらウマが合わなかったようです。
木村は勝より七つ年下で浜御殿奉行を父に持つ家柄で生まれも育ちもが良く人柄は温厚。若い時分から幕府の各役職の経験を積み、順調に出世し将来を嘱望されるタイプの人でした。それに対し勝は下級武士出身で木村とは正反対の人生を歩んできています。
貧乏旗本出身の勝には万事に恵まれた立場にある木村の存在がうらやましくて気に入らなかったのかもしれません。その感情には嫉妬が含まれている気がします。しかも人柄が良く周囲から評価されているとなればケチのつけようもありません。勝とて生身の人間。こうしたことが勝をよけいにイライラさせたのかもしれません。
さて本日はここまでとしましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
※ 写真はサンフランシスコ港に停泊中の咸臨丸として伝わるもの。ウィキペディアによると、「写真は、咸臨丸が1860年(安政7年)にサンフランシスコ(桑港)で碇泊中に撮影されたものとして、1926年(大正15年)にサンフランシスコで開催された在米日本人発展史料展覧会において公表されたものである。しかし、咸臨丸について徹底した調査を行った文倉平次郎は、この写真は咸臨丸ではなく、イギリスから購入した軍艦筑波が1887年(明治20年)に同地で碇泊しているときに撮影されたものであると指摘した」とあります。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集2 書簡と建言」 講談社
・「勝海舟全集8 海軍歴史Ⅰ」 講談社