こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。
黒船来航の動きについてのお話を続けます。
嘉永6年6月6日
ペリーは測量船をさらに湾内深くに侵入させました。その後ろには蒸気船ミシシッピ号の護衛艦がついて来ます。侵入してくる巨大艦を目前にしながらも幕府はどうすることもできませんでした。すでに幕府は彦根藩などの藩に対し艦隊に対する警備を命じ、他の諸藩にも新たに出兵の命を下したものの有効な策などあるわけもありません。
これまで外国船が日本近海に姿を現すことはあっても、江戸湾に侵入する動きを見せることはありませんでした。しかしペリー艦隊の行動はこれまでとは明らかに違っていました。将軍のお膝元である江戸の街をいつでも軍艦から砲撃で焼き払うことができるところまで侵入してきたのです。
徳川幕府が江戸の防備について何ら対策を講じていなかったことが今や誰の眼にもハッキリとわかってしまったのでした。
今、江戸湾深く侵入した黒船艦隊から砲撃を受けたらひとたまりもありません。江戸の街は猛火に包まれ、人々は逃げ惑うことになってしまう。このことは幕府に大きな衝撃を与えました。
もともと徳川幕府にとっての仮想敵国は、毛利(長州)や島津(薩摩)などの西国雄藩でしたから、四囲を海に囲まれたこの国にとっての敵が海の向こうからやって来るという意識は低かったのです。鎖国をすれば海が対外的な防壁になると信じたのかもしれません。しかし二百年以上の歳月が流れ、航海技術が発展し帆船から蒸気機関を利用した蒸気船が活躍するようになるともはや海は防壁の役割を果たさなくなりました。海に海路がつくられるようになると世界の距離は一気に縮まります。そのため、たった四隻の黒船で「夜も眠れず」という状況に陥ってしまったというわけです。
ついに老中阿部正弘は国書を受け取ることを決意します。
「国法を破ることにはなるが、国を危うくするわけにはいかない。国書の受け取りを拒否して戦端を開けば一大事になる。ここは枉(ま)げて国書を受理し、速やかに米艦隊に退去してもらった上で後の対策を講じるしかない」と判断しました。とにかく上も下も大騒ぎになっているのを鎮めるためには、一旦艦隊ごとお引き取り願うしかないと決めたのです。
この日、阿部老中は江戸在府の浦賀奉行井戸弘道に、浦賀に向かい戸田氏栄(とだ うじよし)と協議し国書を受け取るように命じました。
命に従い筆頭与力の香山栄左衛門はサスケハナ号に向かい、9日に久里浜の海岸で国書を受け取る旨をアメリカ側に伝えました。
同年6月9日
ペリー提督一行が久里浜に上陸し、幕府側からは浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道が出席し、ペリーと会見することになりました。
ペリーが日本人の前に姿を現したのはこのときが初めてです。
式典が始まり、ペリーはフィルモア大統領の国書と自身が提督であることの信任状などを渡しました。国書には和親条約を締結したいと書かれていました。国書を受け取ると筆頭与力の香山は一通の書類を差し出します。受領書でした。
このセレモニーに至るまで日米間ですったもんだの駆け引きが行われたのですが、国書受理の式典はわずか20分程度の短い時間で終了しました。その間、戸田と井戸はペリー側に対し一言も発しなかったようです。
式典が終了し、ペリーが開国要求に対する回答を求めたところ、幕府は十二代将軍家慶が病気であることを理由に今は回答できないとし猶予を求めました。そのためペリーは一年後に返事をもらいにやって来ることを告げました。
ですからこのときは国書の受け渡しのみが行われ、何ら外交交渉は行われていません。
ところで幕府側が渡した受領書には国書を受け取る文言の他にこんな一文が書き加えられていました。「書類受領いたし候上は早々にご出発相願い度(た)く候」。平たく言えば国書は受け取ったのだから、速やかにお引き取りを願いたいと伝えたわけです。
幕府としては何としても早くこの混乱を収拾したいという必死の思いがあったのでしょう。けれども後でそれを見たペリーはカチンときたようです。アメリカ大統領の使命を帯びてはるばるやって来た自分にとっとと帰れとは何事か、無礼にも程があると思ったのかもしれません。
同年6月10日
ペリーは10日の夕刻、四隻の軍艦を北上させ江戸湾深くに侵入し、うち二隻は江戸の街を見渡せるところまで艦を進ませました。日が暮れてから大砲を撃たせて湾内に大音声を轟かせました。そろそろ引き上げる頃と思っていただけに人々は驚き、江戸の街は再び騒然となりました。
こうしてペリーは幕府と将軍に十分な威圧をかけたことに満足したのか、12日になりようやく艦隊を引き連れ江戸を去りました。
こうした混乱のさなか、十二代将軍徳川家慶が亡くなります。ペリーが去った十日後の6月22日のことでした。
当時の幕府のうろたえぶりと人々の驚きを詠んだのが、
「太平の眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせんー蒸気船)
たった四杯(四隻)で 夜も眠れず」
という歌です。有名なので多くの方がご存知のことでしょう(ちなみに「上喜撰」というのはお茶の銘柄のこと)。他にはこんな狂歌もありました。
「いにしへの 蒙古の時とあべこべに
波風立てぬ伊勢の風」
何を皮肉っているかおわかりでしょうか。あべこべのあべは老中阿部正弘のことで、阿部は伊勢守(いせのかみ)と称していました。蒙古の時とは、鎌倉時代の元寇襲来のことです。二度にわたって元が大船団を擁して襲来した時にも大暴風雨によって蒙古軍が壊滅した故事からいざとなれば外敵が攻めてきても「神風」が吹くと信じられていました。ところが今回は元寇の時とは反対に阿部が穏便に(波風立てずに)ペリー艦隊を退去させたことを皮肉っているのです。
黒船来航事件は有名な出来事である割には、その詳細はあまりよく知られていない気がします。この日(この期間)をきっかけにこの国を大きく揺るがす激動の日々が始まります。幕末史上、重大な意義を持つだけでなく、その後の日本人の運命を大きく左右する事件でもありました。そのため少しばかり詳しくお話しさせてもらいました。今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「幕末史」 半藤一利 新潮社
・「黒船来航」 ウィキペディア

