こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。
ぜひお読みいただきたいのですが、今回は少し長いので予めご承知いただいた上でお読みいただきたく思います。
前回の渋田 利右衛門(しぶた りえもん)のお話の続きを始めましょう。
勝が利右衛門の旅籠を訪ねた三日後、今度は利右衛門が勝のところにやって来ます。
その頃、勝が住んでいた家は三枚の破れた畳しかなく、天井の板も薪に使ってしまっていて板一枚残っていない程のひどい貧乏暮らしの家でした。突然の訪問者に面食らう勝でしたが、利右衛門の方は一向に気にする様子もなく、妻のお民と娘のお夢を見てニコニコとしています、
利右衛門は持参した風呂敷包みから特別に注文してつくらせた罫紙を取り出し、勝に手渡しました。禄高が父小吉と同じ四十一石の勝にとっては筆記用の紙を手に入れるにも困っているだろうと察しての厚意でした。
勝は幕府倒壊の時期に「慶応四戊辰日記」という自身の政治行動を記す日記を「海舟日記」とは別に残していますが、これはこの時、利右衛門からもらった罫紙を使って書かれたものです。
昼時になり、勝が蕎麦をおごることにしました。口が肥えていた利右衛門でしたが、平気で馳走になり、時間を忘れて蘭書について話し込み、帰り際に勝にこう告げます。
昼時になり、勝が蕎麦をおごることにしました。口が肥えていた利右衛門でしたが、平気で馳走になり、時間を忘れて蘭書について話し込み、帰り際に勝にこう告げます。
「勝様、私は商用で江戸と函館を行き来しておりますが、お預けしたいものがございます」と言って懐から二百両のカネを出し、勝の前に置きました。
あまりの大金を目の前に積まれた勝は驚いて口もきけません。
その勝に向かって利右衛門が告げます。
「僅かだが、これで書物を買っていただきたい。ご遠慮されることはありません。…(中略)…これで珍しい書物を買って、お読みになり、読んだ後、私宛に送って下されば結構でございます」
という意外な言葉でした。
「面白い蘭書があれば翻訳してこの紙に訳して書いて下され。筆耕料はこの二百両からお取りくだされば良い」
と何とも太っ腹な申し出に、しばし考えていた勝でしたが、素直に厚意を受けることにし、利右衛門に感謝したのでした。
利右衛門の厚意はそれだけではありませんでした。
というのは、利右衛門は自分が亡くなった後のことも氣にかけていたのです。
「万一私が死んで貴方の頼りになる人がなくなっては」と自分の死後に勝が困らないように支援してくれ、勝のスポンサーとなってくれる豪商を紹介してくれたのです。
自分だけならいざ知らず、死後においてもこの若者を自分の代わりに心配し、サポートしてくれる存在を勝のために仲間に呼び掛け、支援を頼むというのは尋常なことではありません。それだけ渋田利右衛門は勝を本気で応援し、本気で支援しようとしていたのです。
それは、この国を取り巻く状況を真っ直ぐに見つめ、ほとんどの人がまだ氣づいていない危機が近い将来やって来ることに真剣に向き合い、蘭学と西洋兵学を真摯に学ぶことでその脅威に備えようとする勝の真摯な姿に利右衛門が強く打たれたからです。
利右衛門とその仲間に共通していたのは、勝を本気で援助するだけの経済力を持ち、迫りくる海外の脅威に対する危機感を商人の感覚で持っていたことです。
言うまでもなく利右衛門の厚意には自分が見出した勝 麟太郎という幕臣が、たとえ今は身分が低くともいつかお国のためになるひとかどの人物になると信じてのことであったでしょう。しかしそれだけではなく、函館で廻船問屋として商いを行ううちに商人独特の感覚で海外の動きにも関心を持つようになり、世界を相手に商いをやってみたいという壮大な想いを胸の内に秘めていたことは容易に想像できます。そのためには時代を先取りして情報を収集する必要があったのです。
渋田 利右衛門という人は商人というだけでなく、学者といっていいほどの知識人で当時としても最高のレベルにあった人物でした。
利右衛門が年間に購入する書物の代金は六百両を下回らなかったといいます。また通訳ができるほどの力量の持ち主で、函館奉行から通訳の仕事を頼まれたこともあったといいます。
利右衛門が残した蔵書は膨大であったため、後に一般に公開されるようになり、そうしたことから函館では利右衛門のことを「図書館の祖」と呼ばれるようになりました。
こうして経済的な後ろ盾を得た勝と利右衛門との交流はその後も続きましたが、安政二年(1855年)に幕府が長崎海軍伝習所を開設し、勝が長崎に赴任している間に利右衛門は亡くなってしまいます。
勝の記録である「近世偉人数章」を見ると「惜しいかな、四十に満たずして死す」(これは勝の記憶違いで実際には四十三歳。一説では四十一歳)と若くして亡くなったことを惜しんでいます。
また利右衛門が紹介してくれた人物の一人に灘の嘉納 治右衛門(かのう じえもん)がいます。勝が文久年間から元治年間にかけて神戸で活動していた頃に、この嘉納の資力にすがって海軍で使う機械の購入を賄ってもらうなど多大な経済的な援助を受けています。
勝は渋田 利右衛門への感謝の念を終生忘れることはありませんでした。
「維新前に函館奉行に話をして、渋田の蔵書をいっさい奉行所で買い上げて、その子孫には帯刀を許すようにしてやった」と語っています。勝なりに利右衛門に対する恩返しがしたかったのでしょう。
この時代、勝は妻と幼い子供を抱え、安定した収入がなく経済的には苦しい生活の日々を送る一方、蘭学を学ぶことで世間からは白い目で見られ、交友を断られるなど孤独な日々を経験しました。
そんな中、勝はひたむきに蘭学と西洋兵学を懸命に学び続けました。
この勝の真摯な態度と生きる姿勢は周囲の人たちに影響を与えずにはおきませんでした。
やがて勝の周りには、都甲市郎左衛門や渋田利右衛門とその仲間などの有力な人物が集まり始め、勝に力を貸すようになります。それは 決して偶然ではなく必然であった と私は考えています。
人と人の出会いが人と世の中を変え、
時代をつくる。
勝は良き師と物心両面で信頼できる支援者に出会い、その後の活動を支えてくれるという幸運に恵まれました。しかし勝が世に頭角を現すようになるまでには今少しの月日を要しました。この頃、勝はまさに雌伏の日々を過ごしていたのです。
本日は長いブログになってしまいました。
それにも関わらず最後までお読みいただき、真にありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集2 書簡と建言」(近世偉人数章) 講談社
・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳、松浦玲編 講談社学術文庫
・「現代視点 勝海舟 戦国・幕末の群像」 旺文社
※渋田利右衛門については、 セイゴウさんが書いておられるブログ「絶対への接吻あるいは妖精の距離」にある「渋田利右衛門のこと」(全3回)を参考にさせていただきました。感謝いたします。利右衛門について、さらに知りたいと思われた方にはぜひお勧めします。
