こんにちは、皆さん。
歴史大好き社労士の山路 貞善です。
今回と次回は、勝の蘭学修業が本格化しすでに相当の語学力と知識を備えるほどになっていた頃に出会い、勝の勉学を物心両面から支えてくれた二人の人物についてのお話です。
最初にご紹介するのは都甲 市郎左衛門(つこう いちろうざえもん)という幕府の馬医者です。勝は「氷川清話」の中で、この人物について「幕府の馬乗役にして、馬上の少し上の役を勤めていたごく身分の軽い者なりしが、蘭学を小関三栄(こせき さんえい)に学び該博で、私などは大いにこの人のために学問もしたり、世話にもなった」と話しています。
都甲は幕府では軽い身分でしたが、馬の治療が難しいことを知り、自ら西洋の馬の治療の原書を買い求めて研究したという一風変わった経歴の持ち主でした。この頃は古来よりの治療方法しかなく、難病には十分な効果のある治療法がありませんでした。
ところが都甲は馬医者が見離した馬の難病でも薬を与えて治したことから有名となり、多くの大名からも馬の治療を依頼され、大いに儲け富裕の身となりました。ところが、周囲には都甲のことを妬む者がいたため讒言され、書物同心という閑職に追いやられてしまいました。
もともと人づきあいを嫌っていた都甲は、その後は洋書の研究に専念します。馬の治療で得たカネを都甲は、高価な蘭書の収集に惜しみなくつぎ込みました。
こうして西洋の事情や自然科学にも造詣が深い知識人となった都甲でしたが、馬医者でありながら人とはウマが合わなかったみたいです(笑)。それで自身が気に入った者しか門弟として扱いませんでした。
勝は都甲に気に入られた数少ない弟子の一人で、自分の孫のように扱ってもらい、飯時には勝に給仕をさせながら「さあ食べなさい」と言って飯を食わせてもらったと勝は得意げに語っています。
勝が教えを乞うた頃、都甲は六十四、五歳になっており、人の出入りもあまりありませんでした。その頃は蘭学を学ぶことを嫌う風潮にあったからです。
この師は若い勝に向かって、次のように教え諭しました。
「自分は六十六歳にもなり、もはや前途の望みもないが、お前はまだ若い。これから色々な艱難に遭遇するだろうが、幕府に知れざるように蘭学を研究して、この国のために大いに尽くさなければならぬ」と。
この頃の勝は蘭学を始めて数年経ち、すでに初学者の域を出て人に教えることができるだけの力量を備えるほどになっていました。都甲は一目で勝の人物を見抜いたに違いありません。目の前の若者が向上心に富み、学ぶことに対して真っ直ぐな姿勢を持っていることを。そしてこの国を託すことができる将来有望な青年として都甲の目には写ったはずです。
勝はこの師から志を立てて西洋の学問を攻究せよと励まされました。蘭学を学ぶ者には極めて冷たい風が吹く中、師の激励の言葉は若き日の勝を奮い立たせるに十分であったでしょう。
都甲 市郎左衛門の言葉は、その後の勝の蘭学修業に大きな影響を与えることになるのです。
さて勝を支えた二人目の人物は、渋田 利右衛門(しぶた りえもん)という函館の商人です。貧乏時代の勝のスポンサーとなってくれた豪商で、勝にとっては恩人中の恩人といっていい人物です。
若い頃の勝は欲しい書物を買うだけのカネがないため、日本橋と江戸橋の間にある小さな本屋によく出入りしては立ち読みをしていました。よく顔を出すので店の嘉七という主とも次第に懇意になり、色々な話もする間柄になっていました。
ある時、店の常連である渋田利右衛門が嘉七から勝のことを聞かされ、「それは感心なお方だ。自分も書物を大変好きだが、ともかくも一度会ってみよう」ということになり、嘉七の店で会うことになりました。
会ってみるとまだ三十代と思われる愛想の良い一人の商人でした。渋田の方から、「同じ好みの道だから、この後ご交際を願いたい」という申し出があり、「自分も勝様のお屋敷を訪ねさせてもらいますが、まずは自分が宿泊している旅籠にお出で下さい」と強引に誘われ、利右衛門の定宿(じょうやど)である松前屋に連れて行かれます。
渋田利右衛門という人は、子供の頃から無類の本好きで、商売で江戸に出てくるたびに珍しい本を探すことに無上の喜びを感じる人でした。
その日、勝は利右衛門のもてなしを受け、書物のことを話し込んで夜遅く帰宅しました。その三日後に利右衛門の方から訪ねてきて勝を驚かせることになるのですが、そのお話は次回にすることにしましょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
【参考文献】
・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書
・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房
・「勝海舟全集2 書簡と建言」(近世偉人数章) 講談社
・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳、松浦玲編 講談社学術文庫
・「現代視点 勝海舟 戦国・幕末の群像」 旺文社