こんにちは、皆さん。

「幕末のメンター 勝海舟」を日本一熱く語る歴史大好き社労士の山路 貞善です。

 

前回、厳しい修業の甲斐あって二十一歳の頃には島田虎之助から免許皆伝が授けられたお話をしましたが、これを機に麟太郎は師に代わって色々な大名や旗本の屋敷に出入りし、師匠の代稽古に行くようになります。おかげでささやかな収入を得ることができるようになり、生活の苦しさは相変わらずでしたが、勝家にも少しは明るい光が差すようになります。

 

勝は青年時代にこの師の下で剣術だけでなく、心胆を錬磨する修業も行っています。ある時、師の島田から禅を学ぶように勧められます「氷川清話」によれば、

 

 島田先生が剣術の極意を極めるには、ず禅学を始めなさい勧められたそれで、たしか十九か二十の時であったか、牛島の弘福寺(ぐふくじ)といふ寺に行って禅学を始めた。…(中略)…なに、みなが坐しても、銭の事やら、女の事やら、うまい物の事やら、いろいろの事を考えて、心がどこかに飛んでしまう。そこを叩かれるから、びっくりして転げるのだ。おれなんかも、初めはこのひっくり返る連中の一人だった。段々修業を積むと、少しも驚かなくなって、例のごとく肩を叩かれても、ただ僅(わず)か目を開いて視るくらいのところに達した。

 

と鍛錬を積み、精神を集中させる心境に達したと語っています。

 

 

 

(写真は、東京都墨田区にある弘福寺です。弘福寺HPによると「現存の本堂等は関東大震災で焼失したため昭和8年に再建されたもの」と説明されています。)

 

 

こうしてほとんど四年間、真面目に修業した。この坐禅と剣術がおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解(がかい)の時分、万死の境を出入して、ついに一生を全(まっと)うしたのは、全くこの二つの功であった。ある時分、沢山剣客やなんかにひやかされたが、いつも手取りにした。この勇気と胆力とは、畢竟(ひっきょう。究極的にはの意)この二つに養はれたのだ危難に際会して逃れられぬ場合と見たら、まず身命を捨ててかかった。しかし不思議にも一度も死ななかった。ここに精神上の一大作用が存在するのだ。

 

と勝なりに体得したものがあったことを明らかにしています。さらにその精神作用について、

 

一たび勝とうという思いが急に起きてしまうと、たちまち頭が熱くなり胸の鼓動が高まり、冷静な判断ができないまま、その対処の仕方を誤ってしまう危険から免れることができなくなってしまう。 

またもし(その状況から)遁(のが)れて守る立場に立とう思ってしまうと忽(たちま)ち気力が萎え相手のペースに嵌(は)まってしまう。(すべての)事は、その大小に関係なくこの原則に支配されるのだ。

 

おれはこの人間精神上の作用を悟って、いつも勝敗の念をまずは意識の外に置いて、虚心坦懐に事に処するようにした

 

こうすることで小さくは刺客や乱暴者の厄を免れ、大きくは徳川幕府が瓦解する前後の難局に処した際にも、余裕綽々(しゃくしゃく)の心境を保ち得た。こうしたことができたのは、結局のところ、剣術と禅学の二つの道から体得した賜(たまもの)によるものだ。

 

 

明治期における勝特有の自慢癖が入り込んでいるため話は幾分割り引いて聴く必要がありそうです()。そうだとしてもこのように勝は、幕府倒壊の難局に臨むに当たり、その精神的な土台は剣術と坐禅から体得したものによってもたらされていたことは明らかです。

 

また二つの修業を通じて心胆を錬磨する訓練を積んだことによる精神面への影響は誠に大きなものがあったと述懐しています。

若き日の勝は、父と師の命ずるままに愚直に剣と禅の修業に打ち込みました

そうした修練の日々が勝の人間形成に大きな影響を与えたとは疑いのないところです

 

父の小吉にせよ、師の島田にせよ勝 麟太郎という人間を信じ、愛しながらも厳しく育てようという意思があったことがうかがえます。

こうしたことを考えると、

 

人の育成に関わるリーダーや年長者の、

自身の人としてのあり方、

生きる姿勢、

相手にかけるべき言葉、

接する態度、

愛情の深さ

といったものが育成される側にいかに大きな影響を与えるか、

 

そうしたことを勝海舟の人間形成のプロセスにおいても気づかされます。

また父と師を素直に信じ、強い意思と努力で厳しい修業の日々に耐えた麟太郎も見事な息子であり、見事な弟子であったと言えるのではないでしょうか。

 

 

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳、松浦玲編 講談社学術文庫