こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、

歴史大好き社労士の山路 貞善です。

 

 

 

【 江戸に戻った勝の日々 】

 

前回の内容を要約するとこうなります。

 ・勝が単身で宮島に渡り、長州藩との交渉に当たったものの予想を上回る厳しい抵抗に遭い、思うような成果を得られずに終わったこと。

 ・大坂に引き上げ、復命したところ、一橋慶喜は冷淡な態度で勝を迎えたこと。

 ・その後、勝には帰府命令が届いたこと。

 

 

この頃、勝を長州への使者として起用することを慶喜に進言した松平春嶽も、慶喜がこれまでの幕府政治への反省もせず、改める考えもないのなら公平無私とはとても認められず、このまま滞京して尽力しても「詮あるべからず」と帰藩の決意を固めていました。

 

老中板倉勝静(かつきよ)に帰国を願い出、慶応2年(1866年)10月1日、春嶽は京を発ちました。

 

 

同じ日、勝は帰府命令を受け取っています。

勝の日記には、「(前月に)海軍局小事申し上げ」たとあり、それに対し慶喜から「御下知これあり、大抵、御許容」とあります。これは慶喜から勝に対し、本来の仕事である軍艦奉行としての職務に江戸で専念せよとの指示があったということ。

 

翌2日、勝は春嶽宛に送った書簡の中でこう述べています。

京での「御用筋も先ず少なく」なっており、江戸へ戻るよう命があったことは、「有り難き仕合せ」と書き記しています。

 

長州との交渉を終えて戻った勝に対して、周囲からは幕臣らしからぬ言動をする者として不信と疑惑の目が向けられていました。

 

そうした視線を感じた勝は、「大いに当惑の次第もこれあり、終に不測の猜忌(さいき)も生ずべくと存じ候」と居心地の悪い環境に居続けることで、いつ自身にあらぬ疑いがかかるかもしれないとの危惧を抱いていると偽らざる心情を吐露しています。

 

江戸へ戻るようとの命があったことを、「有り難き仕合せ」と受け止めたのは、「猜忌」の目から逃れたいという気持ちが強く働いていたことをうかがわせます。

 

勝は、4日京を出立し、一旦大坂に向かった後、翌5日、大坂を発ち陸路で江戸に向かい、16日夜、江戸に帰り着いています。

 

 

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江戸に戻った勝には、家族のことで悲しい現実が待ち受けていました。

 

 

次男四郎がわずか13歳で生涯を終えていたのです。帰りつく6日前のことでした。

 

また以前より長男小鹿の官費によるアメリカ留学を願い出ていましたが、勝の言動を快く思わぬ役人たちに疎まれたためでしょう、認めてもらえません。止む無く勝は、自費での留学を願い出ています(同月24日)

 

 

20日登城。その日、勝が目にした城内の様子が日記に書かれています。

 

「殿中、太平無事。狎邪(こうじや)の小人,頻りに私営し、匆々(そうそう)として斡旋す。又、憐れむべし。」と記します。

時代の変化を知ろうともしない者たちの平和ボケした姿に大きな嘆息をつくしかない勝でした。

 

 

 

その2日前の18日には、永年の同志である大久保一翁(いちおう)が勝邸を訪ねています。日記には訪問した事実の記述しかないため、互いに何を語り合ったかはわかりません。

 

恐らく春嶽が提唱した有力大名、前藩主による諸侯会議が開催まであと一歩というところにまで漕ぎつけながら、このたびも慶喜の裏切りにより頓挫したことを共に嘆き、ため息をつくばかりであったでしょう。

 

ですが、幕府内で反主流の立場で歩き続けてきた両者が、この一年半後に徳川終戦処理内閣の総理大臣とその交渉人として徳川家の存続を守り、内戦を回避するための主導的役割を果たす歴史の主役となるのですから、人の運命とはわからぬもの。真に不思議なものという他ありません。

 

 

 

【 勝と春嶽を嵌めた慶喜の真意 】

 

 

勝と春嶽が京を後にしてからも慶喜は京に留まり続けていました。

 

 

先にもお話したように慶喜は、天皇の支持を取り付け、「長州大討込」と称して本気で出陣しようとしました。ところが小倉城陥落の報が届き、形勢が不利と見るや否や、直ちに出陣を中止したため、混乱が生じました。

 

そのためこれまで一枚岩の結束を誇ってきた一会桑(慶喜・松平容保・定敬)の関係にもひびが入りました。そこで長州藩との止戦を図るため、慶喜は松平春嶽にすり寄り、一旦は春嶽が提唱する有力大名を召集した政治路線への方針転換をしたかのようなポーズをとりました。勝を使えと言う春嶽の提案も受け入れました。

 

 

 

ですが慶喜には、春嶽と勝の考えに従う考えなどかけらも持ち合わせてはいなかったのです。初めから二人を騙すつもりであったことになります。

 

 

では慶喜の真意とは、何だったのでしょうか。

 

 

慶喜が徳川幕府を立て直すために熱心に取り組んだことの一つは、軍制改革です。

第一次軍政改正が行われたのは、文久2年(1862年)12月。そしてこの年(慶応2年)8月に実施されたのが、第二次改正です。

 

 

その背景には、小栗忠順(ただまさ)、栗本鯤(鋤雲)(こん、じょうん)らの親仏派の幕府官僚の存在があります。彼らは、元治元年(1864年)に着任したフランス公使ロッシュと結びつき、援助を仰ぐ計画を実施していきました。横須賀製鉄所の建設が進められることになったのもその一環です。

 

 

(小栗忠順)

 

 

征長戦に出陣する前の8月2日、慶喜はロッシュに、武器のことはよろしく頼むとの手紙を送っています。つまり慶喜は小栗らの親仏派官僚ともつながり、彼らの存在を通じて軍事力の充実を図ろうとしていたのです。

 

ところが第二次長州征伐で幕府側は敗北を喫しました。

今の幕府の軍事力では長州藩一藩さえ屈服させることができないという現実に直面していることを慶喜は認めざるを得ませんでした。

 

そこで幕府の権威を高めたいと願っている親仏派官僚たちを利用し、慶喜自身が指導力を発揮して、軍事力の拡大と充実を図ろうと考えたのです。それがうまくいけば、諸藩の力を借りずとも幕府だけの兵力で長州藩を葬ることもできる。そう考えた慶喜でしたが、そのためには必要なものがありました。そこに至るまでの時間でした。

 

 

 

この時の状況について、歴史家の松浦玲先生はこう指摘されています。

春嶽や勝の提案を受け入れたのは、「時間かせぎ」をしようとする意図があったからだと。こうして前越前藩主と再任された軍艦奉行は、慶喜の策略にまんまと嵌められました。

 

 

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勝が使者として、宮島にある大願寺で長州藩との間で幕府が政治方針を改めるからと交渉に当たっていたのは、9月2日のこと。それを承知しながら慶喜は、数日前の8月27日に再度、ロッシュ宛にこんな手紙を書いています。

 

勅命により長州との間で今回は止戦することになったが、これから改革を進めるため「引き続き尽力を願う」と。

 

 

 

勝と春嶽が京から去った2か月後(12月5日)、慶喜はついに将軍に就任しました。

 

慶喜は徳川十五代の将軍の中でひときわ異色の存在でした。なぜなら将軍在任中、江戸城に一日も足を踏み入れることのなかった唯一の将軍だったからです。

 

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

【参考文献】

 ・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

 ・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

 ・「徳川慶喜」 松浦 玲 中公新書

 ・「徳川慶喜」 家近 良樹 吉川弘文館

 ・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

 ・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

 ・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 

  ※ 写真・画像:ウィキペディアより