こんにちは、皆さん。

勝海舟の生涯を手がかりに他人に流されずに生きるヒントを探し続けている、

歴史大好き社労士の山路 貞善です。

 

再開後の『海舟ブログ』の第2弾をお届けします。今回は、振り返りを2回に分けてお伝えする後編です。では始めましょう。

 

 

 

【 思い通りに進まなかった交渉 】

 

慶応2年9月2日(1866年)、宮島の大願寺で交渉が行われました。

長州側から出席したのは、広沢兵助(後の真臣)、井上聞多(後の外相 井上馨)らでした。

 

勝は後年、このときの談判の様子を「氷川清話」の中で、「談判といっても訳はなくとっさの間に済んだのだ。」といかにも交渉に手間取ることがなかったかのように語っています。

 

ですが、現実は全く違っていました。

勝の日記の記述によれば、

 

 「大願寺の書院にて、長藩に会す。一新の御趣旨、演達。皆、承伏」とあります。

 

「一新」とは何を指し、同席した者は何を「承伏」したのか。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 

日記書かれた「一新」とは、これまでの幕府のやり方を本気で改める、すなわち『大政奉還』を意味しています。

 

勝は、長州問題を含め今後の事は「天下の公論」で決していく。つまり有力諸侯が参加する体制で政治を進めていくことを慶喜が約束したと説明し、皆が承伏の意思を表明したと書いています。

 

こう説けば、長州側も理解ある態度を示してくれるだろうと勝は期待していたようです。ですが勝の考えは、少し甘すぎたようです。これからは幕府本位で進めてきた政治の仕方を改めていくことを訴えても、長州側は勝の言葉を容易に信じようとはしなかったのです。

 

 

(長州藩との交渉場所となった大願寺)

 

 

長州藩にすれば、これまでの慶喜の言動をみれば、口先だけかもしれず、額面通り受け取るわけにはいかないと頑強に抵抗姿勢を崩しませんでした。

その上、幕府が本気でこれまでのやり方を改めるというなら衆議を待たずとも、自ら実行すれば良いだけではないかと言われてしまえば、勝としては返す言葉がありません。

 

さらに長州問題について、「衆議」すなわち諸大名会議の場で「討つべし」と決まれば再び征討軍を起こし、「和すべし」となれば軍(いくさ)をしないと(慶喜公は)お考えではないのかと追及の手を緩めません。

 

 

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意気込んで敵地に向かった勝でしたが、談判は長州側のペースで進み、さすがの勝も相手を納得させるどころか、押しまくられる展開になったようです。長州征伐に反対し、衆智を結集した「公共の政」を目指してきた勝としては、さぞ悔しかったに違いありません。

 

勝が今回の交渉で唯一勝ち取った成果らしきものといえば、幕府軍が撤退するに当たり「長州側が追撃しない」という約束を取り付けたことだけでした。

 

 

 

【 密かに勅命を画策する慶喜 】

 

慶喜は休戦のため勝を起用しておきながら、その一方で休戦の勅命を求め、朝廷の命により終戦させようと画策していました。

勝に密使の役目を命じている時に慶喜はすでに休戦の勅命が出るよう、朝廷に働きかけていました。勝はそれを知らされないまま、宮島に向かったのでした。

 

 

此度もまんまと勝と春嶽は慶喜の口車に乗せられてしまいました。

慶喜には最初から勝や春嶽の考えを受け入れる気持ち、すなわち「一新」を行う考えなど全くなかったことになります。

 

 

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勝は帰阪して、慶喜に復命します。

勅命により窮地を脱し、苦労をねぎらうことなく冷淡な態度で勝の報告を聞く慶喜と「一新」の理想の実現に手が届く場所にたどり着きそうになりながらも、ついに夢が潰えた勝。どこまでもソリの合わない両者の対面でした。

 

またしても慶喜に煮え湯を飲まされた怒りを鎮められない勝は、老中板倉に辞表を叩きつけるように提出します。板倉は、必死に勝を軍艦奉行の職務にとどまるようなだめました。

 

 

10月1日、勝に対し帰府命令(江戸へ帰ること)が下ります。幕府の意向に反対する邪魔者は京から出ていけといわんばかりの命でした。

 

 

【宮島応接の歴史的意義】

 

政治の第一線に復帰し、今度こそとの想いを秘め邁進した勝でしたが、理想は遠のくばかり。ついに理想を実現する使者としての役割を果たすことができませんでした。

 

ですが、勝自身の政治家としての生涯を振り返るとき、今回の仕事には別な意味で歴史的意義を見出すことができます。

 

 

歴史家の松浦玲先生は、勝のこの時の行動をこう評価されています。

 

 

「このときまで、海舟は歴史に対して能動的に立ち向かうことができた。幕府がまだ倒れていない時期にその幕府を自発的になげだして国家の統一をはかるというのも、これは歴史に対する一つの積極的行動である。また、それは、幕臣としての海舟が歴史に立ち向かえる最後の手段であった。」

 

 

勝はこれまで自らの想いと政治信条を様々な場面で主張し、批判や非難を恐れず、命さえ狙われる危難に遭いながら、理念を共有する同志らと新たな国家を建設するために行動してきました。何度かその機会が訪れながらも、掌中に収めることができず、ついに最後の機会も潰え去りました。

 

 

ですが、これで勝が歴史の舞台から退場することは許されません。

この後、勝は徳川幕府の幕引きという大仕事を任されます。

その最後の将軍が、裏切られ続けた慶喜であったことは、歴史の皮肉というものかもしれません。

 

 

さて本日はここまでといたしましょう。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

【参考文献】

・「勝海舟」 松浦 玲 中公新書

・「勝海舟」 松浦 玲 筑摩書房

・「勝海舟」 石井 孝 吉川弘文館

・「徳川の幕末 人材と政局」 松浦 玲 筑摩書房

・「氷川清話」 勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

・「勝海舟全集1 幕末日記」 講談社

・「勝海舟全集18 海舟日記Ⅰ」 勁草書房 

写真・画像: ウィキペディアより