芸能の世界とマネジメント -16ページ目

芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

先日より実学道でのブログにおいてペルソナと自我とのバランスのとり方についてのキーワードが多く、しかしながら、学会的な見方からするとそのような考え方はどちらかというと間違いではないか、否、現段階では「間違い」という認識でいてほしいとの補足をしたためました。なぜこのような曖昧な表現になるかというと、ユング自身もそのことについて混同していることもあり、また、日本の研究者もそれに追随するように議論を展開したままであるのが現状で、本件をどのように見るかについては元型としてのペルソナを実例をもって吟味検討する必要があり、これについては私の「実学道」のブログにて、コンプレックスの話が終われば展開していくことを予告しておきます。しかし、「結論」を先んじて知りたいとする姿勢にも少しはお答えしようと思うこともあり、それをこの応用編のブログにて少しづつ展開してみようと思います。

 

まず、ペルソナは個人的無意識よりももっと深い層に存在されるとされる元型の一つで、実はこの元型は元型同士で影響しあうこともあり、これが事実であるとすれば無意識内で無意識同士が作用し、それがさらに意識、とりわけ「自我」に作用し、自我がうまくその無意識を取り込んでいくことにより個性化、ないし自己実現に向かうというのが話の筋です。その元型の中で、元型同士が作用しあい、その結果としてそれが外界に対して大きく作用するとき、それをペルソナとし、内界に向かう場合はアニマ・アニムスとするとされています。よって、ペルソナは深層心理学会では「仮面」と表現され、それがさらに拡大し、私は経営学という見地から表現するにさしあたり、「見た目」や「見てくれ」と表現するに至っております。その経緯のより詳しい内容については「実学道」のブログへ譲として、まずは見た目という意味に変化を遂げた「ペルソナ」について、ペルソナと創造的活動、いわゆる、無意識界との再接触について論じてみたいと思います。

 

ペルソナを見た目と定義した場合、そこにすでに個性化された一つの個が存在するといえます。私がかつてこれに関してマトリクスを使用し、普遍性の高いペルソナを作り上げることを提唱しておりますが、実はこの段階において一つの個性化が実現されており、その意味において自己実現を果たしていることになります。しかし、ここで気になるのは、人のまねをして「自己実現」といえるのか?ということです。確かにブレイクするという目標は達成できたとしても、何か腑に落ちない感じがするはずです。そうです、それがいわゆる「コンプレックス」というものです。このコンプレックスをさらに追及していくと、そこには人のまねをし、人の「ペルソナ」をかぶっている自分が存在し、それではいけないという自分(自我)と、それでいいのだ!とする普遍的無意識とが共存し、自我がこの無意識からの呼びかけに負けてしまう場合、それはただの「パクリ」で終わるという悲しい結末となってしまうのです。いわゆる自我の崩壊です。

 

これでお分かりだと思いますが、自我と無意識との割合ですが、それはバランスのとれた状態であることが望ましいのですが、個性化の過程の初期段階においては強い自我を要求されます。しかしながら自我があまりに強いと無意識の創造性が活かされず、ここから考えると自我の力が5、無意識が5(5:5)くらいの比率で、それでうまく統合できれば8:2の方向へ向けていくというのが理想ではないかと思うものの、このように数字で表現することにおいて私は反対でありまして、実のところ、均衡点をどこにするかについては個人の状況により異なります。基本的に、自我の影響が弱ってくると無意識が作用するレベルが高くなるとされることから、5:5でも意識レベルは「高い」ないし、「強い」となり、うまく統合されることにより徐々に意識レベルを高めていくということが望ましく、その比率の配分は個人によって異なるのが当然であると考えております。

 

いかがでしょうか。皆様方が知りたかったことを一部分ですけどお応えすることができたと思っておりますが、これはまだ一部でしかないと私も理解できておりますので、次回へと話をつなげていきたいと思っております。ご高覧、ありがとうございました。

昨日、LinQメンバーの杉本ゆささんが来年の2月に卒業するとの発表をされました。

 

杉本さんはLinQの中核メンバーであり、LinQの基礎を作り上げた功労者でありますから残念でなりません。独特の明るい笑顔を見ることができなくなるかと思うと寂しい限りであります。

 

最近はLinQメンバーの脱退が相次いでおりますし、ほかのグループでも脱退が多くなってきております。最近の芸能界は強い競争社会となっておりすので、相当なプレッシャーを感じているアイドルも多くなってきておりまして、ますます心のケアが必要となってきているように思います。

 

大切なのは競争ではなく共栄です。

 

話はそれましたが、卒業の日まで存分にその個性を発揮していただければと思います。

 

これまでありがとうございました。

私が運営している基礎分野のブログの「実学道」の進捗が遅いこともあり、今回は余談として話を展開しようと思います。そこで問題となるのが経営学では心の問題は扱わないのか?ということですけど、人間の心そのものをとらえる試みは学会単位で行われておらず、学者単位で学会とは関係のないフィールドで展開されることがほとんどです。とはいえ、組織論ではリーダシップ論、組織行動論、暗黙知や形式知などのナレッジマネジメントにて多少は心のことを語られることがあります。また、近年ではマズローの心理学を経営学に活かした研究を行う国内の研究者もいるのは確かであります。しかしながら、例えば、暗黙知の存在に対する認知にまで踏み込んだとしても、暗黙知とは何かとの回答に至るまでにはいかず、動機つけ論に関してもそうですが、結果を重視するあまりに、わからないことは切り捨て、それ故に非常に抽象的な議論の展開となっているのが残念でなりません。

例えば、LinQというアイドルグループに新人のアイドルが加入しました。先輩のアイドルが新人アイドルに様々なことを教え、教育を行っていくのですが、その時に「心の磁力」についてをいかにして相手に伝えるかについての具体的な方法論にまで踏み込むことはなく、それは暗黙知の問題として取り扱われ、暗黙知と形式知とのサイクルにより、指導者の暗黙知が指導される側の暗黙知へとなっていくと一般的にはされていますが、果たしてその知識なるものはどこの領域に格納されるのかについての疑問や、そのようなサイクル、具体的には4段階を経ないと相手に伝わらないものか?などと思ったりするものですし、経営の現場の人からすれば、「そんなことわかっとるわ!!、具体的な方法を言ってみろ!!」と声を荒げたくなるでしょう。

例えば、あるアイドルを見た瞬時にそのアイドルのファンになり、踊りも瞬時に踊れることがあります。そのファンは踊りの知識や経験は全くなくともそのような現象が起こることはアイドルの現場では多々あります。本来はアイドルの暗黙知として4段階を経て継承される暗黙知は、ものの1~2秒くらいのことでファンに移転されることがあり、こうなるともはや経営学では説明がつかないのですが、この部分をわからないまま切り捨てるのが経営学の特徴でもありまして、しかし、瞬時にして暗黙知が伝えられる現実があるのならば、それを概念化して世に広めようと考えるのが私のやり方であることをご理解いただければ幸いです。

ちなみに、前述の例により暗黙知というものを深層心理学的にとらえるとどのような解釈となるかですが、要するにコンプレックスのことでありまして、個人的無意識の領域によるものであります。例えば、私が元宝塚歌劇団の女優さんからダンスを教わった経験では、その人から教えられた瞬間から踊れるようになるのがとても不思議でありました。そしてその女優さんの説明がまた面白く、本来備わっている身体機能を引き出したに過ぎないと教えられ、端的にいうと、その女優さんは私に教えたのではなく、気づかせたに過ぎないと言っておられました。これは冷静に考えると、いまでもそうですが、幼稚園や小学校のカリキュラムにてダンスをさせられていたのを思い出しました。しかしながら、ダンス事態に興味のない私は「やらされている感」で満ちておりましたので、ダンス音楽を聴くのも嫌でしたし、その影響で中学校に入学するまでは音楽の「授業」がものすごく嫌でしたし、踊ることも、また、踊りを見ること、さらにはそれを指導する先生にも嫌悪感を感じており、もとともとあった教師への不信感から、その意味で「教師コンプレックス」を持った子供であったことがダンスをより一層、嫌いにさせていたと回顧しているのですが、子供の頃に嫌でも体得していた「ダンス」は個人的無意識内にしっかりと格納されており、その宝塚の先生は私に良い意味での「退行現象」を発生させてくれ、それがコンプレックスの解消、すなわち、暗黙知の「獲得」へとつながったということができるでしょう。

このような因果律のとりかたの方が説得力があると思うのですが、いかがでしょうか。そして、暗黙知の移転に関しては移転というよりも、暗黙知への「気づき」を「誘導させる」方がより有効だと思われるのが前述の実際例であります。ただし、ナレッジマネジメントの概念が間違っているのではなく、因果律のとりかたに違いがあるため、違いがあるように感じられますが、目指すべき方向性、すなわち、「伝える」というゴールに関しては同じでありますから、世の中には様々な考え方が存在するとご理解いただければ幸いです。また、テレビではなく、生のステージで生の聴衆者を思うままに動かしたいと考えている演者の方は、聴衆者にもともと備わっている身体機能や知識を一気に起動させる要因を体得しておくと、ステージは確実に盛り上がります。それができるようになるには相当な時間を要するかと思いますが、知っておくと便利かと思います。

余談としては長文にお付き合いいただき、深謝いたします。ご高覧、ありがとうございました。
芸能人として大成することを目指すことは非常にいいことだと思います。それが税金となり還元され、日本自体も豊かになり、国民の生活もよりよくなることだとイメージできます。ところが、大成や成功というものはごく限られた人にしか与えられない機会であり、この点が難しいところですが、かといって全員が成功者となる社会とはどのようなもかと考えるときに、では、そのような状況の中でビジネスの世界において成功という言葉は存在できるのか?などと考えるとき、勝ちと負けとに分けて考えることに無理があるような気がしまして、そこが現在の日本の思想的な問題となるかと思います。というのも、深層心理学的、とりわけ心の問題としてユング派では、基本的に「分ける」ことをしないところに特徴がありまして、ここが他の心理学とは大きく異なる点であります。しかしながら、経営学的に深層心理学を考えると、あるものを「AとB」に分かれているところが実に見事でありまして、ここに差別化の本質があるのではないかということで研究を進めているところです。

要は因果律のとらえ方の問題であると、今のところはそのような仮説で進めているのですが、やはり車の事例を見ますと、同じ車でありながらメーカーによりあまりにも違いがありまして、異なる部分を強調しながらも車としての個性をいかんなく発揮しているのが非常に素晴らしいと思うところであります。法律によりメーカーが乱立できないようになっており、その意味で保護産業であるからやっていけるという意見もあるかもしれませんが、経営戦略論を考えるには上述のことから非常によい、生きた事例を与えてくれるものであり、それをアイドルにも活かせないかというのが狙いであります。

アイドルの世界は車の世界とは逆に参入することは自由です。ですからお金の流れも分散します。しかしながら、ファンの層を拡大すればそれは克服できると思いますし、そこに個性というものがやはり必要になるかと思います。個性とは何かとは私の運営するブログにてすでに何度かお伝えしておりますが、要するに関連するものや人に挟まれている行動の主体のことをいいます。これは象徴とは違いまして、象徴とは挟まれている状況のことを指します。このような立場に立つと人は自分の意思を持ちながらも、「生かされている」という考え方を基本としながら、前に進むことになります。経営戦略論的にはポーターの「ファイブフォース分析」の図に顕著に表れているように、あくまでも中心は行動の主体で、その周りに敵がいるような構図で図示されております。しかしながら、これもよく考えてみると、競争相手がいるからそのような図になるわけで、商売敵がいない状況では孤立してしまい、逆に失敗する恐れがあることを示しております。その昔に私はラジオ番組を作っておりましたが、やり始めた当初は競争相手がいないことが勝利につながると信じておりましたから、競争の発生しない企画を売り込んでいたのですが、ことごとく失敗しておりました。その理由は簡単です。「他社と比較できない」からです。他社と比較できない場合、顧客にとっては判断基準がなくなるわけですから商談がうまくいくわけがありません。そこに気づき、次は他社と共存する道を選び、比較検討しやすくした結果、仕事は面白いほどにとれるようになり、その段階で初めてファイブフォース分析の真意を理解できたのでした。

ここでひとつ、今でも「共存」の道を選んだことについて、あの当時より心理学を学んでいてよかったと思うのは、いわゆる「競争」という考え方で、競合他社に勝利することだけを考えて営業していたら、おそらく今現在の私は存在しておらず、逆に負け犬となっていたかもしれません。というのも、どこかに勝つということは企業間でのつながりを断つことになり、「あいだ」の存在ではなくなるからです。あいだの存在ではなくなるということはつまり、「孤立」を意味し、結局は失敗の道をたどることになるかと思います。このように考えてみると個性化の過程、つまり自己実現というものは人との摩擦から生まれてくるものであり、それから逃れることはできないということです。摩擦から逃れ楽を選んだ瞬間から失敗の方向へ進んでいきます。成功している企業の経営者がよく口にする言葉で、「金のことは考えるな」というのがあります。儲けてる人が金のことを考えていないのは基本的に矛盾する発言でありますが、しかし、上述の摩擦論からすると、お金は人ではありませんからお金と摩擦を起こすことはできません。摩擦のないところに事は発生しないので、失敗も成功もない無の世界となり、ビジネスの結果としては失敗の方向へ向かうと考えてみれば実に見事な発想であることが理解できます。

このように書いている私は皆様方からすれば「摩擦」を感じることはできないかもしれませんが、ある組織に属している限り決してそのようなことはなく、常に強い摩擦の中で生活をしております。アイドルの皆様方にお伝えしたいのは、競争や摩擦を避けるのではなく、「個性を磨くため」の競争や摩擦を自ら仕掛けていくくらいの元気さがなければいけないと思います。これは運営をするプロダクションが一番の責任を負うことになるのですが、踊りの元気さや発言の元気さだけを求めるのではなく、競争相手との共存を目指した競争、すなわち、差別化戦略を展開していけるように企画を展開することにより、より一層の成長と発展を見込めるものと思われます。難しいかもしれませんが、参考にしていただければ幸いです。

ご高覧、ありがとうございました。
前回は中間的なまとめを行いました。皆様方、まず大切なのは、芸能人として輝くには自分が太陽のごとく輝いているようではいけないということをまずご理解いただきたい。太陽は自ら光を発しており、さらにはあまりの高温がゆえに、多くの魅力を引き付ける半面、誰も近づくことができない星であります。誰も近づけないとなると困ったものですよ。アイドルはファンとの距離が近いことに意味があるにも関わらず、そこに近づけないとなると本末転倒です。ですから、自ら光を発するのではなく、主体を見る客体が主体から光が出ているように思わせることが必用でありまして、それを行うには無意識を意識して活用するということが必要となるわけです。ペルソナだけを活用すると、いわば自ら光を発する太陽と同じようになり、ファンにとっては必要不可欠でありながら、決して近寄ることのできない、非常に矛盾した存在となってしまいます。この点に是非ともご注意を願いたいです。

このあたりで一つ、これだけは言っておきたいことがありまして、それはとても重要でありながらどこのブログで主張しようかと長い間思い悩んでいたのですが、応用編のこのブログにてお伝えすることにしました。ではその内容ですが、「無意識は目に見えないものである」ということです。文字で書くと「それは当然でしょう!!」と思う方も多いでしょうけど、ここ最近は経営学での公演よりも深層心理学での公演を依頼されることが多く、招かれた場所でいろいろな人とお話しするのですが、その方々からの反応を見たり聞いたりして思うことは、「無意識は見えるもの」ないし、「見ようとすれば何とかして見れるもの」と思っている人がほとんどであり、といいますか、私を深層心理学の件で講演依頼する依頼主自体がそのような考えの人であることが多く、私の論文を渉猟し、その結果出てきた答えが「無意識は見える」となるのではかなり困ったことになります。というのも、無意識が見えている状況というのはユング派の診断からすると、統合失調症の症状が出ていることになります。ですから、「無意識が分かりました」とか、「無意識が見えてきました」、また、「無意識で考えることの必要性がある」などと、まるで悟りを開いたかのように語ってくる方が非常に多いのですが、それは間違いでありまして、目に見なく、意識化できないから無意識であることを是非ともご理解いただきたいです。

しかしながら、この無意識をそのまま意識レベルにまで持っていき、それをそのまま「行動」というものに「投影」することができる日本人が多く集積する地域があります。それが「福岡県」です。ユング派の考えでは見えない無意識を意識化するには無意識と意識とを「統合」する必要があり、それは無意識が意識のレベル達するのではなく、意識と無意識とが「結合」される状況でありまして、それゆえに無意識が完全に意識下にて再現されることではなく、無意識を感じるという程度のことであり、その無意識の作用を意識にて納得させ、もし無意識が意識にとって脅威となっている場合には、それを意識として理解し、無意識による脅威に立ち向かっていくという流れになります。

これに対し福岡県で芸能活動や芸術活動を行う人々の特徴として、無意識がいきなり意識レベルにまで達し、それがそのまま意識の状況となっておりまして、いわゆる、意識と無意識との「統合」という作用と概念が全くなく、それゆえに、常識では考えられないほどの芸術性がそのまま形となり、またそれが「意識」という抑制作用も同時に働いておりますので、芸術活動中に異常行動は見られず、一般的には芸能と芸術に関しては「天才」となる状況下におかれた人が非常に多く集積している地域であります。これが九州の全域でこの傾向があるのならば理解しやすいかもしれませんが、九州の中でも福岡県のみ、さらには日本全体でも福岡県のみとなっておりまして、謎は一層深まるばかりであります。

話しはそれましたが、このように、無意識とは天才をもってしても「無意識の状態のまま」見ることはできず、ただし、それを感じることはできるというだけのことです。世間の皆様は私が無意識を見ることができる男と認識しているかもしれませんが、私は確かに、無意識を見ようと努力をしておりますが、見えたことは一度たりともありません。ではなぜ私は人の心を読むことができるのか?またその的中率の高さゆえに田中誠一の研究に取り組む人も続出しておりますが、無意識を知るには無意識をうまく扱っている人と日夜接することであります。そのヒントが福岡県に隠されております。私の研究をするくらいであれば、福岡県のローカルタレントやローカル芸術家を研究することが最短距離を歩むことができると思います。

ご高覧、ありがとうございました。