これまでこのシリーズを長く論じてきましたが、今回で最終とさせていただきます。次回よりまた別の問題を扱うことにし、個々の磁石を使い多くの人を取り込むことへのまとめを行っていこうと思います。これまたくさんのことを論じてまいりましたが、要点として、コンプレックス、元型、自我、布置、陰と陽の5点を全てミックスさせて考えることができればそれで事足ります。元型に関しては、最初にペルソナを活かし活動することを申し上げました。コンプレックスに関しては複雑なことを複雑なままに扱うこと、もし整理するのであれば布置論を使うこと、そして、それらを自我と統合させることにより完成するという一連のプロセスをもう一度思い出していただきたいのです。そしてこのいわゆる「個性化」なるものは陰と陽との絶え間ない混じり合いが必要であり、常に矛盾を生きていくということを示すものでありますし、ユング心理学的に解釈していくとそのような理解が必要となります。
芸術などのクリエイティブな職に就く場合、無意識からの作用が非常に役に立つことはよく知られている話です。しかしながら、だからといって、無意識のみを働かせると分裂の状態になり、統合失調症となります。統合失調症の患者が独り言をいうのはこの無意識からの対話であり、本人にとっては正常な状況であっても、通常の人からするとおかしく見えてしまうわけです。これを意識で蓋をすれば治るというのが深層心理学的な治療法の考え方であります。ですから、クリエイティブであればそれでいいわけではなく、現在の状況を自分自身で客観的に評価できる体制が必要となるのですが、これがいわゆる「自己」なるものでありまして、この領域になると神様的な存在となるわけです。これらのように、元型を作用させればそれでよいかというと、そうではなく、自我とうまく統合させていくことが必要であり、しかしながら、自我があまりにも強い人は逆に無意識との衝突もひどくなり、強い者同士のエネルギーの衝突が起こると次は「崩壊」へと向かいます。高学歴の研究者や公務員が事件を起こすのはこのようなことが原因であることが多いのであります。例えば、大学教授による学生や格下の教員への対応の悪い態度を吟味してみますと、そのような教授は非常に優秀であることが多く、換言しますとクリエイティブであるわけです。なぜクリエイティブかというと、自我を作用させすぎて無意識からの攻撃を受けておりますので、それでクリエイティブになっているのです。ところが、常に自我でそれを抑え込もうとするあまり人への対応もクリエイティブとなってしまい、結果としてその対応を受けた若い人たちは「いじめ」や「パワハラ」と感じるに至ります。ところが出てくる論文に関しては人気が出るので教授としての地位は高くなり、結果として有名な学者となるのですが、ついに無意識の作用が勝つと警察沙汰になる場合もあるわけです。気になるのは人への対応もクリエイティブとなる具体例なのですが、これは大学教授のイメージが悪くなると業務妨害となりますので実例はご想像にお任せします。但し、かなり「クリエイティブ(一般的な想像を超える多種多様な行動)」であることは間違いありません。
この例からしますと、大学教授というのは「教官」としてのペルソナを使っているのは一目でわかるかと思います。そして、意識的に詰め込んだ知識を駆使し、客観性豊かな論文を書いていくのですが、書いていく途中で無意識が意識の邪魔をします。どのように邪魔をするかというと、たくさんの本を読み実験をし、客観的なデータを取り込みそのデータが正しいと結論付けられた時、果たしてその結果が本当に正しいのかという不安になるのです。というのも、1+1=2であっても、リンゴ(1個)+バナナ(1本)=ミックスジュース(1杯)となるからです。いわゆる2という概念がミックスジュースと同じか?という迷いが出てくるのです。なぜこのような悩みが出てくるかというと、1+1=2は抽象的でありますが、リンゴ(1個)+バナナ(1本)=ミックスジュース(1杯)は具体的でありまして、そして結果として1杯となるからです。では掛け算すればよいのでは?と思われるかもしれませんが、2×2=4は1+1+1+1=4と同じことですから、結局のところ足し算も掛け算も大差ないといえます。手順の違いでありまして、具体事例からすると抽象的な概念に数値的なギャップが生じ、証明が不可能となることが度々現れます。私としてはここで意識のレベルを止めておけば面白い話をする教授としてもっと人気がでるものと思っているのですが、優秀な学者というのはこの数値的なギャップを埋めようとするあまりさらに自我を働かせ、無意識からの働きを抑え込み、ますますおかしな方向へ向かってしまい、最後には分裂を引き起こし、心の病に陥ってしまうのがお決まりのプロセスであります。
要は、上記の例が男性の大学教授である場合、アニマが抽象的な部分を穴埋めして具体性をもたせようとするサービス精神、要するに「アニマ」が強く影響していると思われのですが、これを男性的な自我が押させこむため、結果として「怖い教授」という結果になります。ではこのような教授が個人的な経歴からくる心のありかたを読み解くには彼のコンプレックスを見ないといけないのですが、優秀な学者に共通するのはやはり専門知識に対するあまりにも強すぎる感心であります。要するに、専門以外のことは若いころからほとんど経験しないので、コンプレックスに偏りがでておりまして、「世間知らず」な状況になってしまいます。これは日本の教育制度にも問題があるのですが、社会経験を積まなくても経営学者になれるような手厚い補助があるようでは偏りが出るのは当然であります。布置論からすれば、主体の内部と外部とのかかわりがあまりにも単調すぎて、もはや布置を考えるものでもない未熟な構造であることが多く、世間とのかかわりがもともと非常に少ないため、布置をも育てることもできず、よって、自分をどこに布置させられているのか、ないし「させるか」について考える必要もないため、せっかくのクリエイティブな作用も水の泡となってしまうのであります。
この事例から芸能人の皆様方に学んでいただきたいのは、「過猶不及也(論語、第六巻、先進編)」です。「中庸を越えると結局は及ばないのと同じことである」という孔子の言葉にあるように、陰と陽とのはたらきを大切にし、極度に偏らないのが「磁石」の働きであるように考えられます。磁石そのものを見ていただいてもお分かりになるかと思いますが、同じ磁石の+と-のどちらか一方の磁力が強いことはなく、同じであるように、磁石としての主体はそのバランスを保つことが磁石として存在する意味が出てきます。そして、磁石が磁石として機能することによりファンを獲得することができると考えることができ、よって、例えば元型とは何かのみを考えるのではなく、考えることと、そしてなにより「経験」を積んでいくことにより本当の知識を獲得していただきたいと思っております。では、その方法論とはいかにして成り立つのかを次回のシリーズへの課題とし、本シリーズを終えようと思います。
長きにわたりご高覧、ありがとうございました。次回をお楽しみに。