心の磁力の活用(具体策 21 コンプレックス再考 3) | 芸能の世界とマネジメント

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コンプレックス再考と題して進めておりますが、これはコンプレックスの応用編です。少なくともユング心理学においてのコンプレックスの概念はプラスにもマイナスにも作用する概念です。コンプレックスとは何かといえば、人間の経験や体験が蓄積された複合体であり、ゆえに、プラスに働くときもあればマイナスに働くときもあります。一般の方々はコンプレックスといえばマイナスのイメージでしょうけど、ではそのマイナス面はどに由来するのかというと個人的な経験や体験の記憶からくるものです。これを個人的無意識という層に蓄積され、この層が自我と作用し、様々なことが起こってくるのです。ここが面白いところです。現在の最新の心理学は人の行動を観察し、原因を与えることにより結果を得ようとするわけですが、実は、人間というのは個別に様々な体験をしておりますので、ある原因を投げかけたところで、十人十色の結果となり、それゆえに、数学的な結果、要するに、統一見解を見出すことができず、ひたすら迷い続けているのがまた印象的です。統一見解が見いだせたとしても元型が作用している時のみでありまして、結果としてユング心理学の精度の高さを裏付けるものとなっているのがより興味深いところです。

 

話はそれましたが、人間は人それぞれに個別のコンプレックスをもつ、翻訳しますと、人間は人それぞれに個別の経験や体験を持つがゆえに、好みも変わってくるのは当然のことです。元型論としては、男性には聖マリア的なイメージのアニマなるものが存在し、漠然と女性というものを意識できます。しかしながら、元型だけでは経験が伴っていないがゆえに具体的な人物像がイメージできません。そこで身近な存在である母親がその対象となるのですが、これがいわゆる母親コンプレックスを引き起こし、場合によっては病的にもなるのですが、それを克服するために様々な女性を観察することにより自分なりの女性像を、いわゆるアニマを育てることになります。アニマを育てていく過程、ようするに男性は女性に接近しようとして性格までも女性化させようとします。そしてそれが行き過ぎると精神的には本当の女性となってしまうのですが、多くの男性は女性と同化していく過程で男性性を取り戻すのです。女性は全てこの逆のプロセスをたどります。ほとんど神秘の世界ですけど、これがまた現実の世界でありまして、神秘と現実は表裏一体なわけです。

 

さて、様々な経験を経て先の男性はアニマを育てるのですが、そのうちに特定のイメージにたどり着きます。それはその個人の好みの問題となります。その個人の特定のイメージなるものがユング心理学では「象徴」といわれるもので、心の奥底から響く女性の声と現実の女性の声とが対決することにより、その例えようのない感情が一つのイメージとして浮かび上がってきたとき、それを象徴とユングは言ったのでした。では、この象徴がでてくるのはなぜかと考えた時、そこにコンプレックスが出てきます。ユング心理学は元型論であると思っている人も多いかと思いますが、実は違います。元型だけを勉強してもあまり意味がありません。心全体として元型を見たときに意味が出てきます。

 

ではそのコンプレックスはどのように生まれるのかについてですけど、これは基本的には個別の人間の個別の話となりますから、説明は困難です。しかしながら、食べ物についてなら少しばかりは説明ができるかもしれません。例えば、前回に九州地方の人が鯛かイサキかを選ぶときに、イサキに集合性を見出したことをしたためました。これが北海道に行くと事情は異なります。なぜかというと、九州地域においてイサキは日常的な魚です。要するに、イサキがたくさん捕獲できるのです。しかしながら、北海道にイサキは存在しません。ゆえに、イサキを知らない人も多く、このことからしても九州の人がイサキと鯛とではイサキを選び、北海道の人は鯛を選ぶというような構図が浮かび上がってきます。ただし、九州の人でも鯛が好きな人も多いですし、北海道の人でイサキを知らないがゆえに食べてみようと思う人もいますから、ひとくくりに地域コンプレックスをまとめることはできませんが、おおよそそのような傾向にあるというようにご理解いただければ幸いです。

 

このように、コンプレックスというものは人間の経験の蓄積が複雑に絡み合ったものです。そこから出てくるアイディアやイメージというものは年を重ねるほどに相当なものになり、ゆえに、年配の人を見て若い人は「老賢者」をイメージするわけです。実際には老賢者ではなくとも、見ているほうはそう感じるわけです。ということは、老賢者らしいペルソナに、老賢者らしい言動があれば人は真なる老賢者として見てくれることになります。ここでお分かりかと思いますが、元型の老賢者を働かせるだけでは真の老賢者にはなれないのです。そして、元型から自我までの全てが老賢者となれば見ている側は老賢者とみなすわけですから、芸能人としてはこの原理原則を活かさないわけにはいきません。ここで重要なのは、見た目も人間としての中身も一貫した状態でなければ見ている側は老賢者とはみなしてくれません。ですから、芸能人として大成したいのなら、薬物に手を出すのではなく、心を高める修行をすることが最も重要なことになります。

 

しかしながら、現実的には生きているうちに様々な元型がコンプレックスに作用し、自我との問いかけを図ってくるため、心を高めることは非常に難しいのですが、この難しいことをやってのけるところにプロか素人かの差が出てきます。プロの芸能人は自身の心を自在に操れる神的な存在でなけれななりません。ゆえに古より芸能人は神の祭事において欠かせない存在となっているのです。現在の芸能人はこのことを忘れていは行けません。江戸時代の日本には『役者論語』というものが存在し、芸能人の多くが読んでいたとされます。今一度、芸能人の心のあり方を再確認する時期に差し掛かっているのでないでしょうか。

 

話はそれましたが、要するに、人の好みにはコンプレックスが大きく作用することをご理解ください。そしてそれを大いに活用していくところに芸能人の仕事の面白みがでてきます。

 

次回はこの続きをやっていこうと思います。ご高覧、ありがとうございました。