仕事の関係上、消防関係の資料を検索していたら、興味をそそる資料を見つけた。
皆さんはご存じだろうか?
江戸時代に起きた江戸三大大火…その一つである「明暦の大火」、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大火の筆頭としても挙げられている。
明暦の大火は、明暦3年(1657年)1月本郷本妙寺より出火した火災で、江戸の三大火のひとつ。
この大火には俗説である「振袖火事」というのがあり知られています。
消防博物館(インターネット上の仮想博物館)に、この話が載せられています。
「麻布百姓町の質屋さんで屋号が遠州屋、主人の名前が彦右ェ門、この人の一人娘で梅野さん、年は十六、町内での小町娘、この梅野さんが承応三年の春うららの一日、母親につれられまして菩提寺本郷の本妙寺に参詣しての帰り、せっかくここまで来たのだから浅草の観音様へというわけで、上野池の端仲町の錦袋園の辺で駕を降りまして春のどかな上野山下を母親二人でぶらぶら歩いておりますと、通り魔のように擦れ違った美しい寺小姓、どこのだれかわからず口もきかなかったのですが、これがいわゆる一目ぼれというやつで、上野山内へ後姿を消してゆくまで、ポーッと見とれていた。母親にかたをたたかれ真赤になったのが発端で、さてこれからというものは寝ては夢、おきてはうつつまぼろしのという、今どき流行しない恋わずらい。
両親が心配して、なにを話してもご返事なしのためいきばかり。
子煩悩の両親は八方へ手分けして、その美少年を探してみましたが、てんで手がかりがありません。
娘はろくに物もたべず、だんだんやせていくばかり、やっとの事であの方にお目にかかれないのなら、せめてあの方のお召しになっていた着物でもというわけで、紫縮緬の畝織の、荒磯と菊の模様を染め、桔梗の縫紋を置いたものをつくってもらった。
これにちょっと手を通しただけで見染めの翌年即ち承応四年一月十六日、十七才を一期として焦れ死んでしまった。
遠州屋では娘梅野の心を不びんに思い、棺をその振袖で蔽って野辺の送りを済ませ、この振袖を本妙寺に納めた、ところが本妙寺の方ではこれを近所の古着屋へ売りとばした。
翌年梅野の祥月命日にあたる日に上野山下の紙商大松屋又蔵の娘きの(これも十七才)の葬式にこの振袖が本妙寺に納められた。
又、売りとばすと翌々年の同月同日本郷元町粕屋喜右ェ門の娘いく(十七才)の葬式に三度びこの振袖が寺へ戻ってきた、こうなると住職も少々おそろしくなり、三人の娘の親に相談して、この三人が施主となって明暦三年の正月十八日寺内で大施餓鬼を修し燎火に投じてこの振袖をやくことになった。
サアこうなると、だまっていられないのが江戸ッ子。
恋し懐しが病のもと、相手は上野輪王寺水も滴る寺小姓と、尾鰭をつけて瓦版かなんかで煽ったからたまらない、江戸中のひょうばんとなり、さしもの本妙寺の境内は超満員「早くやかねえのか」「早く焼けよ」と、はらのへったやつが、うなぎ屋へ飛込んだようなさわぎ。
住職もこの風ではと思ったが「それでは」というので火の中へこの振袖を入れた。このとき一陣の竜巻北の空から舞い下り、裾模様に火のついた振袖をさながら人間の立った姿で地上数メートルの本堂真上に吹き上げた、忽ち本堂のき先から出火、三筋に別れる狂風に煽られて紅炎の一団は湯島六丁目に一団は駿河台へと飛火した。」
(出典:消防博物館)
1月18日の今日は、「振袖火事の日」なのです。
俗説とされていますが…、切なさを感じるお話です。
お買い物マラソンやってるみたい。