~すみません。今日はものづくりとは全く関係がない上に、かなり長いです~


もう先週のことになりますが、親戚35人の新年会がありました

この親戚が集まるのは、通常は年に1回、この新年会で…です。母は5人兄弟(3兄弟2姉妹)で、その5人にそれぞれ2人ずつ子供がいて、その子供もそれぞれ結婚したり子供がいたり…で、1歳から78歳まで総勢35名(今年は…)でした。

祖父母の大きなお屋敷があった私の小学生時代には、夏休み、冬休みの度に、祖父母の家に孫たちは預けられ、従妹同士で一緒に宿題をし、泥団子を作り、お手伝いをしろとしかられ、花火をし、寝る間も惜しんでオシャベリし、お正月にはかるたやコマ回しをしました。
年が近かった従妹のYちゃんと私はその中でも特に仲良しで、いつも一緒に遊んでいました。遠慮がちだったYちゃん。彼女はいつもみんなを優先させてあげる、やさしい性格でした。

私が中学に上った頃だったか、祖父母が亡くなり、みんなが集まっていた大きなお屋敷は取り壊されました。私も親の転勤でカナダに引っ越したり、受験があったりして忙しくなりました。多分その頃からだったのだと思います。従妹のYちゃんは、なぜかあまり外に出なくなりました。学校も休みがちになりました。
でも、「どうしたの?」…と聞いてはいけない空気がありました。
私はずっと気になりながら、どう言葉をかけたらいいのかわからずにいました。祖父母の家もなくなって集まる機会も減っていたので、1回聞き逃すと次は1年後…というように、気になりながら月日が過ぎていったのです。
でも、高校生の頃、勇気を出して手紙を書きました。
「体が痛い時に、体のお医者さんがいるように、心が元気じゃない時には、心のお医者さんがいるから、診てもらって元気になってほしい」…と。

手紙が着いてすぐ、叔母から電話がありました。
「手紙読んだわよ~。すっかり大人みたいなこと言っちゃって、大きくなったのね~ってみんなで読んで笑ってたのよ~。」
私は傷つきました。真剣に書いた手紙を笑われて、そして一番届けたかったメッセージが届かなかったことに。

その頃はまだ、「心療内科」というものは一般的ではなくて、「精神科」というひとくくりで、ちょっとだけ心が疲れた人も、急に大声でわめきだして他人に危害を加えてしまうような人も、同じくくり…のような偏見がありました。気軽に相談できる環境が少なかったのです。

それから私は、叔母に対しても、従妹のYちゃんに対しても、どう接していいのかわからなくなりました。Yちゃんは集まりには来ませんでしたが、たまに電話をくれました。
「就職したんだって?おめでとう!」
「結婚するんだって?おめでとう!」
私は言葉をもらうけれど、私からは言葉がかけられませんでした。
何の話題にどう触れたらいいのか、触れてはいけないのか、わからなくなってしまったのです。された質問にだけ答える少し不自然な会話をし、「寒くなったね」とか「暑いね」とか、季節の話題に短く触れて電話を切ることが多くなりました。

そうやって月日が経ちました。

そして今年の新年会。
会場のレストランに入り、会費を払って顔をあげると、なんと、そのYちゃんが、そこに立っていました。
「あのね。来られたの。あなたに会いたかったの」


それは、30年ぶりの再会でした。


「うん!よく、来たねぇ!!よく、来られたねぇ!!」
抱き合いながら、何度も同じ言葉をお互いに繰り返しました。
その30年はとてつもなく長かったようでもあり、でもそう抱き合ってみるとほんの一瞬のことのようでもありました。
Yちゃんは、30年前と変わらない優しい目で私の夫と子供たちを見て、挨拶をしてくれました。
「はじめまして。Yです。あなたたちのママと仲良しの従妹のYです。あなたたちにも、会いたかったのよ」と。

Yちゃんはその新年会に来たくて、会場までの往復を練習したそうです。
それはきっと私の想像をはるかに超えるエネルギーと、勇気のいる行動だったのだと思います。

今年の新年会は、忘れられない新年会になりました。

諦めなければ、いつかは、できるんだ。

新年会でもらった30年分の勇気。
大きな、大きな、勇気。

いっぱいある勇気を、いつも読んで頂いている読者の皆様にもおすそ分けしたくなって、アップしました。

長いブログにお付き合い頂き、ありがとうございました。