今日は作品とは関係のない内容です。
昨日、中学の同窓会に行ってきました。
中学を卒業してから、10年ぶり、いえ、20年ぶり、いえ、実はもっと「すごく久しぶり」な再会
今とは違って「少子化」ではなかったので、1クラス43人ぐらいで9クラスありました!
幹事の方たちがみんなにハガキを送って下さり、集まれたのは380人中58人。
実は私は中3の5月に親の転勤でカナダに引っ越してしまったので、その中学を卒業はしていないのです。しかも中学に上がる時に引っ越してきたので、小学校からの持ち上がりの友達もゼロでした。でも、その公立中学校で過ごした2年間が、私の中ではとても密度の濃い大切な2年間でした。特に親しくなかった同級生のことを、未だになぜか、いろんな場面で思い出しては「どうしているのかな?」と思ったりするのです。
当時クラスで一番頭のよかった子(もう「おじさん」ですが)が、医者になってて「お~、やっぱり(挫折せずにがんばったのか)!」と思ったり、そうかと思えば、ちょっとワルで、口をきくのが怖かった人が、とても社交的で穏やかな大人になっていたり
険しい表情が印象に残っている先生が「隠居生活は楽しいですよ~」と、背筋をシャンっとさせて幸せそうに語って下さったり
懐かしくて嬉しくて
あっという間の3時間でした。
思えば、成長するにつれて、学力やら家庭の経済力やらで、どんどん自分と似た環境や能力(?)の人ばかりが周りにいるようになっていってしまうのですよね。中学校が、最後の「地域」という共通点のみで、つながった人たちが、同じ箱で同じ作業をする場だったのかもしれません。
社会の縮図ですよね。
しかも、お化粧もパーマもオシャレもまだない、「原石」のまま。
言葉の伝え方も直接的すぎたり、逆にまだ何も発言できなかったり。
何も隠さず、「素」のままでぶつかって、笑って、泣いた、あの時期が、すごく貴重だったと大人になって思うのです。
だから、大人になってどんなに飾って会っても、まつ毛のエクステして目がクリっと見えても、実はみんなの目には、あの当時の素朴な姿が映っていて、そして素のまま、受け入れてもらってる安心感がお互いにある。
楽しかったなぁ。
また、次の何年後かの同窓会で、元気に堂々と会えるように、毎日がんばりますっ。
幹事さん、ありがとう
昨日、中学の同窓会に行ってきました。
中学を卒業してから、10年ぶり、いえ、20年ぶり、いえ、実はもっと「すごく久しぶり」な再会

今とは違って「少子化」ではなかったので、1クラス43人ぐらいで9クラスありました!
幹事の方たちがみんなにハガキを送って下さり、集まれたのは380人中58人。
実は私は中3の5月に親の転勤でカナダに引っ越してしまったので、その中学を卒業はしていないのです。しかも中学に上がる時に引っ越してきたので、小学校からの持ち上がりの友達もゼロでした。でも、その公立中学校で過ごした2年間が、私の中ではとても密度の濃い大切な2年間でした。特に親しくなかった同級生のことを、未だになぜか、いろんな場面で思い出しては「どうしているのかな?」と思ったりするのです。
当時クラスで一番頭のよかった子(もう「おじさん」ですが)が、医者になってて「お~、やっぱり(挫折せずにがんばったのか)!」と思ったり、そうかと思えば、ちょっとワルで、口をきくのが怖かった人が、とても社交的で穏やかな大人になっていたり


懐かしくて嬉しくて

あっという間の3時間でした。
思えば、成長するにつれて、学力やら家庭の経済力やらで、どんどん自分と似た環境や能力(?)の人ばかりが周りにいるようになっていってしまうのですよね。中学校が、最後の「地域」という共通点のみで、つながった人たちが、同じ箱で同じ作業をする場だったのかもしれません。
社会の縮図ですよね。
しかも、お化粧もパーマもオシャレもまだない、「原石」のまま。
言葉の伝え方も直接的すぎたり、逆にまだ何も発言できなかったり。
何も隠さず、「素」のままでぶつかって、笑って、泣いた、あの時期が、すごく貴重だったと大人になって思うのです。
だから、大人になってどんなに飾って会っても、まつ毛のエクステして目がクリっと見えても、実はみんなの目には、あの当時の素朴な姿が映っていて、そして素のまま、受け入れてもらってる安心感がお互いにある。
楽しかったなぁ。
また、次の何年後かの同窓会で、元気に堂々と会えるように、毎日がんばりますっ。
幹事さん、ありがとう
