引き出しを整理していたら、古い封書が2通出て来た。寺田健太郎氏からの便りだった。氏からの手紙や葉書はひところ何通も頂いた。これらの文章はほぼ総て諳んじている。寺田氏は、いつも同じような内容を伝えてくれたからである。
寺田氏が訪ねて来た日を今でもよく覚えている。ある日の昼下がり、秘書に連れられて総務課を訪ねて来られた。最初、寺田氏は社長と直に話しをしようと思っていたようである。あの折の温顔が忘れられない。はるばる埼玉から願い事があるからということであった。一通り話を伺って帰った後、部長が椅子から滑り降りて近づいてきた。
「何だ、あのじじいは?」それにしても総務部長として穏当さを欠く言葉ではないか。
寺田氏は、確かに田舎の好々爺と言ったいでたちで、サラリーマンの通弊である、人を見た眼で判断すると言うセオリーからすれば場違いな見た目ちょっとうらぶれたいでたちであった。
氏は、陸軍船舶兵であった弟さんを戦時中に洋上で失っておられた。鬼畜である米軍によって撃沈されたのだ。輸送船であることを百も承知で米軍は無差別攻撃をした。この陸軍船舶部については、堀川恵子と言う人物が最近ものした「暁の宇品」(講談社、2021年)と言う著書がある。堀川氏がスポットを当ててくれて、陸軍船舶部の存在が認知されたことは評価できる。陸軍船舶部は昭和7年の第一次上海事変では鮮やかな上陸作戦を成功させ、近代上陸戦の嚆矢として世界的に注目された。米軍の海兵隊は、この陸軍船舶部のパクリではないかと怪しんでいる。
ただ陸軍皇道派についての訳の分からないディスリが文中にあって興ざめである。無知の分野については言及するべきではなかったろう。
寺田氏の依頼は、そのような気の毒な戦没兵員のために洋上慰霊ができないだろうか、というものだった。それから、私は社内を走り回り、洋上慰霊祭に向けて何時もの通り突っ走った。当初社内の上層部は否定的であった。私の所属していた会社の遺伝子として、金儲けに結び付かない話しにはそっぽを向くのである。最初理解を示してくれたのは、海務部だった。それから細かい打ち合わせを重ね、たまたま近所を通りがかるコンテナ船を見つけ、少々航路を離脱してもらって輸送船の被災現場に到着、慰霊祭の実施するというプランに漕ぎつけた。船長が祝詞をあげ、お神酒を海に注いだ。今でもその折の海務部門および船員さんたちの力添えは忘れられない。船長からは、祝詞の案文はこれこれでよろしきや、との電文を頂戴した。当初この洋上慰霊祭について社の上層部は一切無視、黙殺だった。後日偶偶その折に栄転に浴した代表取締役がいたが、一緒に功績調書を検討した国交省(当時は、まだ運輸省だったかもしれない。) の担当官が、この一事で彼は問題なく栄典を受けられるだろうと私に囁いたのを覚えている。
それから寺田氏は、折に触れて社を訪問し、感謝の言葉を度々くれた。私は、社の談話室でコーヒーを振る舞って彼を歓待した。その時の話しの内容と手紙の趣旨はいつも一致していた。帰り際には、必ずもうわざわざ会社に来なくていいからと伝えた。会うたびに、寺田氏は老い込んでいき、最初一緒に尋ねて来た同僚を失い、最後は家族に支えられながら訪ねてくれた。寺田氏の行き帰りの行路が案じられたからだ。
寺田氏がいつも話してくれたのは、慰霊祭の後から沈没した輸送船に乗っていた弟が夢枕に立ち、兄貴帰ってきたよ、という情景を度々みたのだというものだった。最初、私はその話を聞き流していた、というより軽く考えていた。最近だんだんこのエピソードの深い意味合いに気づくようになった。寺田氏ももうこの世に居ない。今頃は弟君と心ゆくまで歓談していることであろう。