ずっと踏み込みたくないと思いながら、もうことここに至っては感懐を述べておくべきかと思う。今回の阿部監督の事件は誠に気の毒なことだったと思う。また、AIの限界というか、体制側に偏ったメカニズムが隠されているのだと言うことも分った。別に、阿部監督は全然悪くないと言う気まではないが、ただただ気の毒だったとしか言いようがない。さほど、阿部家の日常に通暁しているわけでもないのでね。
この点、阿部家のお嬢ちゃんから通報を受けて、直ちに警察に連絡をとった児童相談所(以下、児相という。) は勇気があるなあ、と思った。普段付き合いのある児相の鈍感ぶりからは思いもよらない迅速な対応で、ひょっとして有名人だからここで児相の名を挙げようとでも思ったか。事を大袈裟にする児相て何なんだと思う。
警察も児相に言われたからとノコノコ行ったのだろうが、ちゃんと阿部氏に札をみせたんだろうか。容疑はなんなんだ。たぶん家庭内のいざこざは収束していただろうから、現行犯ではないよな。警察は何をしているんだ。単なる児相の犬か?自主的判断ができなかったのか。疑問なしと言えない、
最近Xで、阿部監督の現役選手時代に、澤村投手の頭をひっぱたく阿部捕手の動画が再生されている。これ、どう思う?とでも言いたいのか。私はあの試合を見ていた。動揺していた澤村投手は、あれで立ち直った。あれは警策だったのだ。
ジョン・ロックもルソーも暴力を認めている。それはあり得ると。キリストも神殿からテキヤを追い出した。暴力はある時には最善の手段なのだ。早い話し、戦争は暴力の集合でもある。戦争も含め暴力が忌まわしいものであることはわかる。だが、あるべき、あるいは正しい暴力もまた、あり得る。それを否定しきれないのが、人の世だ。正しい暴力があり得るから、聖戦があるのであろう。まあ、聖戦についての誤解もあるが。先般の大東亜戦争は米国から仕掛けられたものだが、わが国の執行部は良く判断をして、受けて立ったと思う。負けはしたが、もし戦争をしなければ、わが国はもっと惨めな境遇になったかもしれない。つい半世紀前には、暴力は肯定されていたのだ。
小学校の頃は、軍隊帰りの先生がたくさんおられて、ぽかぽかよく殴られた。しかしながら、児童の誰も精神障害になっていないのは不思議だ。私もなぐられたが、一人許せない教師がいる。その長嶋という教師は、別に暴力は振るわなかったが、私のことが嫌いらしく、私を追い掛け回して罵詈雑言を浴びせて来た。その思い出は、今でも胸糞が悪くなる。あれは、明らかに暴力だと思う。私はその教師に町内で会いたくない一心で、地元の公立中学への進学をあきらめ、都内の私立中学に進学した。
暴力について度々考えることがある。老いた落語家が、最近の弟子の修行について問われて、「地下鉄なんてえものが出来るような当節、弟子に修行なんてものはできませんや。」と答えた。私は、この問題は相当に深い内容、人間の機微に至るものが含まれているように思う。有名なシェフが弟子に暴力を振るったと言われ、窮地に立たされた話しも聞いた。相撲界でもちょいちょい暴力沙汰の話しを聞く。土俵の中は死を賭けた闘争のはずだ。それが師匠あるいは兄弟子の可愛がりで凹む話しには、実はがっかりしているところだ。まして、警察沙汰などとは。
かつては、殴る蹴るで会得したものがあった。殴る蹴るはやる方も相当に負担なのだ。永平寺の僧侶のシゴキでは、兄弟子が胃潰瘍になったりしている。
暴力について考え始めたのは、里子を養育するようになったからだ。もちろんわれわれ夫婦は体罰を与えないようにした。里子の成長ぶりをみて、私はそれが正しい養育であったとは思えない。古代において、武力を持った武将がしばしば祭神に祀られていることをみると、あながち暴力が悪いわけでもないという気がする。要は、誰が何の目的でどう暴力を用いたか、ということである。里子を養育する過程で、体罰としつけの狭間で悩んだ。結局、それは解決できてない。里親はしばしば体罰の事件を起こすから、里親制度はダメだと、これはいわゆる施設側の人間から言われたりした。里親制度が不完全なのはわかる。しかしながら、施設に体罰、暴力がないというのはどうだろうか。人の世であるからには、あり得ると思っている。もっと陰惨な話しも聞いた。
私は児相はDVの対応には向いていないと思う。DVは、暴行・障害の範疇であり、警察だけで対処するべきであると思う。阿部事件も警察が最初に出ていれば、もう少し大人の対応をしたのではないだろうか。とにかく、私は児相は無用の長物であると思っている。
私は正当な暴力は認めるべきだと思う。最近、しばしば外国人による暴力沙汰を聞く。そしてそれに対して警察が案外に無力であることも聞き及んでいる。警察が頼みに足らない以上、自警団、すなわち日本版FBIを創設するべきであるし、それが外国人の悪行を封殺する有効な手立てであろうと思う。この問題は急務なのだ。外国人はわが国に渡来する理由として、水と安全をしばしば挙げている。安全を維持できないわが国の現状は決して正しい方向ではない。安全を脅かす暴力に対しては、やはり暴力を用いて安全を守るべきではないだろうか。
1945年の夏以来、わが国の男子は武人であることをやめ、国際的にも珍しいことに只管種馬として生きて来た。もういい加減男子の本務は武人であることに目覚めるべきなのだ。もちろん誰も彼も暴力に適しているわけではない。ただ、正しい暴力があることを認めるべきだろう。西欧では決闘裁判というものがあった。最後はどちらが正しいかを決闘で決めるというものだ。よく考えればこれが正しいことであることは分かる。わが国だけが、そうではない、などということはあり得ないだろう。源平合戦、関ケ原の戦いなど、しかたがなかったのだと思うだけだ。良いとか悪いとかの評価は後知恵だということは分かる。
幼稚園の時、私は友人に石を投げつけられて負傷した。私はなぜその友人にけがをさせられたのか、今となってはその原因は不明である。ただ、その友人は正義を実行したのであろう。かように暴力は正義の実行を迅速に実施することが出来る。その後、友人は幼稚園からいなくなった。ただ、その友人の親はしかったりはしなかったかもしれない。何かの理由で私が彼の不快を産み、彼は迅速にその解消を行ったのだ。園がその友人を放逐する等の処分をして正義をはかったとしても、一旦は暴力によって、暫定的な正義は実行されたのである。男たるもの、暴力に屈すべきではないし、できるならそれを跳ね返す力を備えるべきなのだ。