縁とはどうやって結ばれるものであろうか。俗に縁は異なもの味なものと言う。この場合の縁は専ら男女関係を言うらしい。男女の縁というものは、どこでどう結ばれるのか、誠に不思議なものである。縁はさまざまの人を結びつけ、また思いがけない別れがあって倦むことを知らない。合縁奇縁というが、この世は奇縁ばかりであるとも言い得る。

何かの海外物推理小説を読んでいたら、主人公の青年がタクシーに乗り込んだ途端、続いて目も覚めるような美しい女性が転がり込んで来て、「助けて!」と囁く幕開けが描かれていた。長いサラリーマン生活でそのような劇的な出会いを念願したが、ついに果たされなかった。縁もなかなか難しいものである。

「ベルグレービア(Belgravia)」と言う映画を視ていたら、1871年ごろトレンチャード家の嫡男フレデリックがあるパーティーで貧しいが美しい女性クララを見初めるシーンがあった。

「一目惚れね」と、そばにいた女性に言わせる。

だが、一目惚れというメカニズムはいかにして起こるのだろう。いつ、どこで、どうやって、この縁は作られたものか。

しかしながら、縁はこれだけではない。「北夢瑣言」によれば、説教をしても誰も聞いてくれないと嘆いている僧に、食べ物を撒けとのアドバイスをした者がいた。功徳ということだろう。その撒かれた食べ物を食べた、鳥やら、虫やら、動物やらが生まれ変わって聴衆に、即ち仏弟子になると言う話しだった。これも縁には違いないが、恐ろしく迂遠な話しではないか。

それはそうと、まだ会社勤めをしていた頃、くたびれ果てて帰路,四ツ谷から電車に乗った。もちろん混んでおり、座れるわけもなく、中程に入り込み吊革に縋りついた。すでに窓外は暗く、窓に映る哀れなわれとわが身を見つめた。ふと気づくと隣に見覚えのある顔があった。三遊亭小遊三師匠だった。目が合うと師匠は少し微笑んだ。私は眼を逸らした。ははん、新宿の末廣亭に行くのか。そう思った。

電車が新宿に着くと、幸運なことに眼の前の座席が空いた。やれやれと座りこむ。隣の席も空いた。気づくと師匠も座った。末廣亭ではないんだ!こうして、二人は並んで電車に揺られた。なぜか私は少し緊張した。隣の人物の体の温かみが伝わってくる。この旅は、吉祥寺に着くまで続いた。師匠が席を立つと、少し緊張が解けた。不思議な縁だった。少し楽しい気持ちも混じっていたように思う。なぜ話しかけなかったかと、悔んだりした。

大学卒業の頃放埓な生活が祟り、就職活動が出遅れた。それでも走り回ったあげく、1社が拾ってくれた。その頃、友人がある航空会社の説明会に行きたいから付いて来ないかと誘ってきた。二人して繁華街にある会場まで歩いて行く。貧乏書生は地下鉄に乗る乗車賃が惜しかった。会場に着くと、入口で係の若い社員に、もう説明会が終わった旨告げられた。友人はそれで気がすんだらしく、直ぐに立ち去った。あの時、私は何をぐずぐずしていたのだろう。今となっては思い出せない。所在なげに入口でぼんやり佇んでいると、さっきの若い社員が息を切らせて戻って来た。

「人事課長が会うと言っているから、入りたまえ。」

私は困惑した。しかたなくおずおずと事務所に入る。件の人事課長は事務所の片隅で休憩していた。椅子に浅く腰かけていて、コーヒーを飲んでいた。その姿は、長時間の説明に疲れた雰囲気と、慌ただしく帰りのフライトを待つ気分が入り混じって滲んで見えるようだった。 

「君も飛行機が好きなの?」とか何とか、彼は質問をしたように思う。恐らく、応募者の殆どがそのように言うのであろう。

私は、正直に友人に付いてきただけだと答えた。

人事課長は説明会に遅れたことを。微笑を浮かべながら物柔らかに咎めた。私は、口を尖らせて貧しいため地下鉄に乗る電車賃が惜しかったのだと答えた。彼は破顔一笑したが、それからの一時は、不思議なことに私にとって愉快な時間であった。その人事課長とは不思議にウマが合った。彼も本と音楽が好きだった。

「ぜひ東京の本社に来たまえ。」最後に、彼はそう言って航空券を呉れた。

結局、私はその航空券を使わなかった。さっきお話しした会社からすでに内定をもらっていたからだ。私は、その義理に拘束されているような気がした。後日その会社に入社して。内定を蹴とばすことは何の問題もない、と同期の友人にあざ笑うように言われた。今でも、どちらの進路を進めば良かったのか、分からない。ただ、その航空会社の課長と話が弾んだにも拘らず、無理にその縁を捩じ切ったことには、多少の悔いが残った。もちろん、気の合う人物が居たからといって、その会社の社風が自分に合うと思うほど、私もナイーヴではない。ただ、自分の本能を信じるべきであったのかもしれないと思うのである。あの時、内心の声は、この航空会社に行けと囁いていたように思う。

とある地方の学校に入学した。この凍てついた街は、都会でありながらどこか寂しさを残していて、寂れた佇まいの街並みだった。入学した当座はいささかホームシックに悩まされた。だが、やがて一人暮らしの生活に慣れた。授業はつまらなかった。それは、キャンパスの中に学生運動の余燼がまだくすぶっていたせいかもしれない。校舎はしばしば運動家の学生に占拠され、授業ができなかった。そのような学生たちに詰問されて立ち往生をする教官の姿を時々見かけた。学生運動は、ひところ燎原の火のように全国に広がっていたが、ようやくこの頃下火になりかけていた。そう言う時代であった。

バリケードで封鎖された校舎の入口には、ヘルメットをかぶった学生たちが徘徊していた。つばきで臭くなったハンドマイクを片手に握りしめてがなりたてる。ステレオタイプな内容のアジ演説をよく聞いた。激越な口調で、一向に激越でも何でもない無内容の演説を聞かされるほど、不愉快なことはなかった。そのうち、その汗くさい学生たちの前に立って声を励まし叱責する教官の姿を時々目にすることに気づいた。それが件の教授との邂逅であった。教師とは学生の非を認めると叱るものであろう。その教官は当然の事をしているに過ぎなかった。しかしながら、勇敢とも何とも、あるいは狂気とでも言えるような、一種異様な姿に映った。そういう時代であった。

私は一種の物見高い興味につられてこの先生の授業を受けた。難解な科学哲学の講義だった。彼は、学生たちから学内3大奇人の一人と言われたりしていた。やがて、彼の経歴が聞こえてきた。旧制高校から法科に学んだ。そこで法律の講義を聞いたが飽き足らず、別の大学に移り哲学を学んだ。しかしながら。高名な哲学教授が教壇に上った際、羽織袴でありながら革靴を履いていることに我慢ができなくて、その学校も中退する。もちろん、それだけが理由とは思えない。その後、別の大学に入り直して動物学と医学を学んだ。そこの主任教授とはウマが合ったらしい。その先生はお話しをされながら腕組みをしたそうで、気が付くと自分もそうしていたと話されていた。ある人物を気に入るとその人物の癖が移るのだなあと述懐されていた。

授業は、学問の饗宴だった。ラテン語やドイツ語で文献の一節を滔々と述べ、英語の文献が示された。毎回山の様な資料が配布された。当時の私には、理解できなかった点が多かったが(もちろん、今でもよく判らないが、昔よりはましか。)、一種の学問的な爽快さを感じて講義には全て出席し続けた。文献は当時全部読み切れなかったが、少しずつ読み進め、何年かかけて読了した。あのような面白い授業を前にも後にも聞いたことが無い。

期末試験の問題がまた、毎回評判になった。われわれの何年か前の先輩たちが受験した時には、「自由とは何か」と言う問題で、「書くも自由、書かぬも自由」とだけ答えて退席した先輩が「優」を貰ったなどという噂話がまことしやかに伝わってきた。

試験の告示が学校の掲示板に毎回張り出されるが、その次第は巻紙に毛筆で書かれていた。これが実に味わい深かった。私は次の年になっても、わざわざその掲示を見に行ったりした。慶應義塾大學で、福沢諭吉の書く掲示が好きで、毎回見に行っては筆写する人が居たと言うエピソオドを聞いたことがあったが、分かるような気がする。

やがて、ふとしたことが縁で先生の部屋に通うようになった。教官室は日当たりが良く、居心地がよさそうだった。入口の横にある黒板には、蛙の絵が書いてあった。先生の話は憂国の心情を吐露するものが多かった。これは、私などに学問の話をしてもしかたがなかろうと見極めて、その頃の時代に合わせた話題を選んでくれたものに違いない。暗くなるまで話しこんだ。話しながらいろいろな文献を私の前に拡げて積み上げた。時には、他の講義を休んで、先生の部屋に座り込んでいた。また、別の日には息を弾ませ、デモから抜け出て先生の前に立った。あの時代に、辛うじて正気を保てたのは、先生との対話があったからであるという気がする。

先生は、ビスケット、煎餅などを出してくれた。貧しく腹をすかしていた私には何より有難かった。菓子をつまみ、薬缶から茶をついで飲んだ。そうやって、いつまでも先生と向かい合って座っていた。二人の前には無限の時間が広がっているような感じがした。岡本綺堂の「半七捕物帳」が描く中に、半七老人と著者が終日話し込んで、時計の無い国に行ったようだったというような一節があった。誠にそのような気分だった。

ある一夜、ふと先生は旧制高校の寮歌を口ずさんだ。寒くなると、先生は足元にある古臭いガスストーブにマッチをすって火をつけた。今でも、足元に忍び寄る寒気と、あのガスの湿った燃える匂いとシューという音を思い出す。

「マッチ擦するつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)

そうして、先生は私にも歌えと言った。われわれは、古い寮歌を深夜の誰も居ない校舎の中で、ぼそぼそと合唱したりした。かようにして、私は寮歌というものを口移しに教えてもらったのだ。

先生は、恐らくは大正年代に見かけた旧制高校風の教養を身につけた人物だった。そのような人物がまだわが国には残っていた。先生の凄さは、普通の学問上の弟子ではなく、むしろ私のようないわば裏口から入りこんだような門外漢にもその話す内容がよく通じたことであろう。私が、瑣末なというより低俗な疑問を口にすると、先生は打てば響くように実際的な解答を示した。それは、驚異的な世間知だった。もっぱら、学校の部屋からのみ世間を眺めて過ごしていたはずの先生が、世間の些事について適格な理解力と推理力を示すことは、今にして思えば真に驚くべきことだった。私は何か感懐を述べて、先生に反駁されたことがない。先生は常に同感であると、同じ思いであると言ってくれた。私は安心して、意見を述べることができた。

「もう帰ろう。」先生はそう言って立ち上がり、教官室の戸締りをする。二人は暗い校舎の廊下を歩いて、裏口から外に出た。先生は話しながら歩く。途中水溜りがあっても、先生はじゃぶじゃぶと真っ直ぐつっきって歩いた。校門から街に出た。交差点があった。夜も遅い上に、この街に特有の見通しの良い道路で、どちらを見ても車など一台も来ない。人通りもない。先生はそれでも信号が赤から青になるまで待った。並んで私も待った。恩師というものが、人を教え、導く者であるとするなら、紛れもなく先生は私の恩師であった。

時として、街のレストランンに立ち寄り、食事を驕ってくれたが、

「君はゆっくり食べたまえ。」そう言って、ご自身は支払いだけを済ませてそそくさとお帰りになった。

「ぼくにとっては、家内の手料理が一番だよ。」そう言われた。

 恐らく、気づまりな食事にならないよう慮ってくれたものであろう。諸事気の付く方だった。

卒業に際して、相変わらず世間知に疎い私が就職先に苦しんでいるのを見かねて、

「私の研究室に来るか?」と言われた。

どうしてそうしたものか。私はその有難い申し出を断った。恐らく、私が勉強の過程で先生を失望させることを恐れたためであったろう。もしそうだとすれば、考えてみれば実に下らない理由だった。ここでも、またもや私は運命に逆らってしまった。

その地を去って長い年月がたった。先生とは主に年賀状の遣り取りだけになった。そして、ある日新聞の死亡欄に先生のお名前を発見した。私はしばし呆然と立ち尽くした。

20年以上たって、一度だけ私は先生を訪ねたことがあった。官舎のある道を曲がって、ご自宅に向かうと、遠くから道に立っておられる老いた先生を認めた。少し背が曲がった先生はそうして道に佇んで、私を待ってくれていたものであろう。