さあて、どのくらい前か、たぶん60年以上昔の話しだ。そのころ、国分寺市は目出度く市に昇格したばかりだった。昭和41年の話しだから、私は中学生だった。その頃のJR国分寺駅南口は眠ったような街並みだった。もちろんJRなどとは言わず、国鉄と言っていた。駅の正面にはこんもりした雑木林の一角があって、それは郵政省の官舎だった。雑木林の中に、ポツンポツンと小さな一戸建てが散在していた。考えてみれば贅沢な配置だった。この辺を散策すると、よくハーブ、ブルーベリーなどが見つかった。恐らくは、官舎の住人が育てていたものであろう。

駅自体は、ほぼ北口に機能が集中していて、長い廊下で南口に繋がっていた。南口と言っても、改札口とその横に日通の荷物受付場所があるだけだった。廊下の下は、崖になっていて、今は廃線となってしまった下河原線と言う電車の線路が走っていた。もともとは多摩川の砂利を運搬する目的で1910年に「東京砂利鉄道」として開業したらしい。現在の国分寺と府中の市街地を通っており、府中にとっては最初の鉄道路線であった。1921年に一旦営業廃止されたが、1933年に東京競馬場が開設されたことから、翌年同競馬場アクセスのために東京競馬場前駅を建設の上、旅客線として営業再開した。その後貨物線としても営業が再開された。1973年(昭和48年)4月1日に開業した武蔵野線とルートが重複するため、その前日の3月31日を最後として旅客営業を終え、貨物線も1976年(昭和51年)に廃止された。要するに武蔵野線に飲み込まれたわけだ。

南口の駅前はちょうど扇を広げたような半円形の広場になっていた。道筋が線路沿い、郵政官舎に通じる正面の道、それに左右に斜めの道があった。駅を背中にして右側の斜めの道が立川、国立に通じていて、道沿いが一番栄えていた。その頃は、西国分寺はまだなかった。道沿いに今でもあるとんかつやとパスタの店があった。

左側の線路沿いの道に、古書店があって、椎名 誠が本にしてから有名になった「国分寺書店のおばば」が座っていた。いつも和服を着澄ましていて、ちょっと近寄りがたい雰囲気だった。何でも日本女子大を出ていると言う噂だった。いつも、店に来る客に何か文句を言っていたような気がする。店内は書物だけではなく、瀬戸物なども並べていた。

国分寺書店の手前には、「ヨネザワ」と言う洋食屋があり、オムライスが絶品だった。左手斜めの道に面して、というより正面の道にも面しているが「梨花」と言う有名なラーメン屋があった。今思い出しても記憶に残るラーメンだった。あっさりした醤油味のいわゆる東京風ラーメンだった。その店には中華料理の店が続きで併設されていて、ここも美味しい中華料理を出してくれた。今でも、古老が集まると「梨花」が美味だった話しになるくらいだ。最近聞いた話しだが、そのラーメン屋の大将は、賭けマージャンが好きで近所の雀荘に入り浸り、ついに店を潰してしまったという噂だった。国立に行く道筋の駅側に「三石堂」と言う古くからある書店があった。私はよくその本屋に入り浸って間がな隙がな本の背表紙を見ていた。

その隣の薬局は今でもある。そこの店主は府中明星の出身者だと言う噂だった。府中にある明星学苑のOBはこの界隈ではたくさんいる。国立に向かう道沿いには洋菓子店があった。そこのモンブランも大振りで美味しかった。我が家で、その店の菓子を買うことはなかったが、いつか土産でそこの洋菓子をもらったことがあった。それで味を記憶している。

そのまた隣には不動産屋があったが、それに続いて古本屋があった。多摩図書といったように記憶する。五分刈りのいやに体格のいい親爺が座っていた。私は三石堂の本を見飽きると、多摩図書に移った。親爺はいつも胡散臭そうに私を見た。私がなかなか出て行かないと、そわそわしだして、私が何の本を見ているのかと覗きに来たりした。よくある光景だが、かれも手にはたきを持っていた。別にそれを使う訳でもないようで、私の周りをうろうろしていた。何となく買わないのなら、早く出ていけという感じだった。それで、私は店内を逃げ回り、それを親爺が追いかけるという、鬼ごっこが始まるのだった。

いつだったか、大量に書棚にあった本をレジに持ち込んだ。親爺は吃驚したように私の顔を見て、売るのが惜しいと言う感じで、嫌々本を包んでくれた。

随分後になって、その親爺が国分寺の町について英語で書いた案内のようなものを自費出版したと知った。新聞にその記事が載っていた。なかなか教養のある親爺だったのだと、見直した。