「失われた時を求めて」(À la recherche du temps perdu)の第1巻冒頭によれば、マルセル・プルースト(Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust)は、マドレーヌで古い記憶を掘り起こしたようだった。私の場合は幼児の記憶として川の記憶が時々浮かんでは消える。マドレーヌの記憶は甘い味覚に結び付いていて幸福感に満たされたようであるが、私の古い記憶のひとつは音であった。この音については幸福感もない代わりに、さればと言って不幸せな感情も特に無い。プルーストは寧ろバターの香りで脳髄からエンドルフィンが出たのかもしれない。マドレーヌには大量のバターが使われる。残されたレシピによれば、バターと粉が半量ずつとされている。バターの原料である牛乳と牛肉の味と香りは人類に幸福感を齎すようだ、と言うのを雑誌の記事で読んだことがある。

「私は、そのマドレーヌの一片を浸けてほとびさせたお茶を一匙、機械的に、唇にもつていつた。(中略)瞬間、私は身震いした。何か異常なものが身内に生じているのに気づいて。なんとも言えぬ快感が、孤立して、どこからともなく湧き出し、私を浸してしまつているのだ」(『スワンの恋 Ⅰ 失われた時を求めて 第一巻』プルースト 著/淀野隆三・井上究一郎 訳/1958年)。味覚や嗅覚から過去の記憶が呼び覚まされる心理的な現象を、この後マドレーヌ効果、プルースト現象(効果)、無意識的記憶と称されることになる。

アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の「大料理事典」(Grand dictionnaire de cuisine)に依れば、1755年ロレーヌ公スタニスラス・レクチンスキーに仕えていた召使マドレーヌ・ポルミエが、厨房にあったありあわせの材料とホタテの貝殻を使って祖母から教わったビスキュイのような菓子を急遽作ったことが由来とされている。コメルシーにある城の晩餐会を前にパティシエが料理番と喧嘩の末出て行ってしまったかららしい。マドレーヌ嬢は、名前が菓子の名称として永久に残されたことを喜んでいるのであろうか。プルーストが食べたマドレーヌは貝殻型ではなく、円型であったのではと思われている。だから紅茶に浸して食べやすかったのであろう。こうなると、マドレーヌ・ポルミエとはどのような女性であったのかということについて詮索したくなる。

「大食物辞典」に書かれている、フォアグラの項目など身の毛がよだつというべきか、ここまでやるのかと言うべきか、美味の追及も並大抵なものではない。

谷山・志村予想で有名な数学者である志村五郎のエッセイを読むと、彼の奥さんがマドレーヌを作る度にフランス人の亡友を思い出して偲ぶというくだりがある(「鳥のように」85頁(筑摩書房、2010年))。どうもこの菓子には、失われた時を求める作用があるようである。この谷山・志村予想は1955年に日本の数学者の谷山豊によって提起され、1960年代以降に志村五郎によって定式化された。フェルマーの定理解明の糸口になった。

ところで、この谷山についての志村の批評がまたなかなか辛辣で面白い。谷山は非常に緻密なのだが、最終段階になるとピョンと飛ぶところがあるらしい。その批評はこんな感じだ。「谷山はたくさんの間違いを犯す、それもたいていは正しい方向に間違うという特別な才能に恵まれていた。そうしてわかったのは、良い間違いを犯すのは非常に難しいということだ。」彼は弱冠31歳で自裁した。婚約者の鈴木美佐子も「私たちは何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません」と遺書に書き残して後を追うようにガス自殺を遂げた。恐るべき情愛ではないか。彼女にしてみると、谷山は巨大過ぎたのだろう。

このアレクサンドル・デュマ・ペールの「モンテクリストフ伯(Le Comte de Monte-Crist)」には影響を受けた。人間は復讐というものに情熱を傾けることが出来るのだと言うことにも驚いたが、主人公のエドモン・ダンテスが獄中で受けた一種の全人教育に興味を覚えた。彼はそこで賢者のごとき神父と交流し、一般教養を身に付ける。私もそのような教育を受けたいものだと痛切に思った。なるほど人生は短い。いかに合理的にかつ過不足なく知識を身に付けるかは、重要なことではなかろうか。多くの人は、特段抜きんでた知識を必要としないで人生を過ごすものである。バランスの取れた教養さえあれば見過ぎ世過ぎには十分なはずだ。知識は、たぶん多すぎても良くないのだ。

母と手をつないである家を訪ねた。実は母と手をつないだ記憶はさほど多くはない。むしろ父と良く手をつないでいた記憶が残っている。父と手をつないだ後、手に煙草の香りが残った。いつから煙草の臭いに嫌悪感を抱くようになったのか。まだ小学生の頃朝起きて、煙草の臭いがするとわくわくした。父親が居るからだ。きっと遊んでくれると思った。そう、例えばキャッチボールとか。

高校生くらいからだったか、長らく父親とそりが合わなかった。顔を合わせたくなくて、学校も地方に鞍替えしたりした。自由への逃走のはずだったが、やはり「自由からの逃走」でしかなかったのだろう。

心理学の授業でちょっとしたテストがあった。人生で影響を与えた肉親というものだった。たいてい、女性は父親で、男性は母親だった。私は父親の影響を強烈に受けている言う奇妙な結果が出た。その結果を見た教授は「マフィアみたいだな。」と呟いた。父が滅んで数年たったころから、しきりに父と話したい、父に聞いて欲しいことがあると思うようになった。しかし、もう手遅れなのだ。

人は一生でどのくらい手をつなぐのだろうか。そして、抱擁されることは、更に少ない。日本人は外国人に比べて抱擁される機会も、抱擁する機会も多くない。そして頭をなでられることも。上手く行っても、失敗しても、抱擁され、頭をなでられ、「よくやったね」と優しく言われることは、長じては猶更のこと多くない。老年になって、時々そのようにもう一度母に抱擁され頭を撫でられたいと思うことがあるのだ。

途中、川があった。大きな川で落差工があった。流れはどんどんと腹に響く音をたてて流れていたのを覚えている。落差工とは、川の中に設けられる施設で、階段のような段差を設けて、流れの勢いを削ぐものである。川幅の広さと流れる音の大きさに驚かされた。これが記憶の断片である。神戸近辺の地図を覗いてみた。当時住んでいた摂津本山の近辺に目を走らせてみると、無数に川筋が見られるのに驚く。この辺りは、流れが多い。どの川筋を辿ったものであろうか。幼児を連れて歩いていたのだからさほど遠出ではあるまい。そうだとすれば、芦屋川か、あるいは夙川だったのか。川筋は真直ぐでコンクリートで護岸工事が施されていた。我が家から最寄りの駅は阪急神戸線であれば岡本が駅名であった。JR(当時は国鉄であったが、それを省線といった。運輸省は、戦中運輸通信省と言ったが、戦前は鉄道省であった。その省であろう。) であれば摂津本山である。摂津本山の次駅は芦屋だった。芦屋川をまたぐにはその芦屋駅で降りて、丁度摂津本山駅に向かって戻ることになる。私の記憶では、川は左から右に流れていた。だから芦屋川ではなかろう。夙川であるとすれば、岡本で乗って夙川の駅を降りると、進行方向に向かうことになるから、川は左から右に流れる。夙川だったかもしれない。果たして、あの時われわれは省線に乗ったのだろうか、それとも阪急に乗ったのか。地図上では夙川を降りて直ぐの所に大きな橋があることがわかる。「夙川は、長さ7kmほどの川ですが、源流から河口までの高低差が500m以上もある急流で、一般的に急流といわれる利根川や木曽川とは比べものにならないほど傾斜がきつく、滝のような川といえます。(中略)急流では水の流れが速く、勢いがあります。水の力で堤防などをこわしてしまうこともあります。これをなくすためには、水の勢いを緩める必要があります。方法として、川の勾配をできる限り緩くすることが考えられます。そこで、段差を利用します。川に段差をつけると、川の勾配が緩いところができます。水の流れは、段差のところでは、川の底にぶつかって、水の勢いが弱まり、堤防などをこわすことは少なくなります。夙川の中に段差がたくさんあるのは、勾配の緩やかなところを多くつくっているからです。」 (https://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/rokko/study/shuku/shuku-b_1.pdf)

夙川なら、少し前に訪れたことがある。あの時は仕事だった。駅前は都市化されており、見違えるほどの変貌ぶりだった。その頃は美しい街並みだと思った。当時私と肩を並べて共に歩いていた友人は先年死んだ。当時大学は荒れており、彼は積極的に学生運動に身を投じていた。どこかで激しいデモを繰り広げて後、荒々しい改革に対する渇望の雰囲気を身に纏って時折下宿に現われ、私と二言三言話をして慌ただしく下宿を離れた。

昔は、民家もまばらで、概ね農家と低層住宅であった。大正9年(1920年)に阪急神戸本線が開通して、その時夙川駅が設置された。神戸本線は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の神戸三宮駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線であった。当時から阪神間屈指の住宅地であったが、どちらかと言えば別荘地として知られていた。東京にある向島のようなものだったろうか。財界人、芸能人あるいは文豪と言われる人など多くの有名人が好んで住むようになった。文豪は、人によって異なるのだろうが、この場合は谷崎潤一郎のことだろう。財界人は、松下幸之助かもしれない。

「あれが、金鳥の会長が住んでいる家だよ」友人は、豪壮な邸宅を指さして教えてくれた。

また、外国の企業が社宅を設けるなど外国人居住者も増え、モダンで美しい街が形成されていった。昭和12年(1937年)には、街路事業として河畔松林の保全がはかられ、その後、昭和26年(1951年)に戦災復興事業の一環として河川敷が公園化された。それに先立つ昭和24年(1949年)には1000本の桜の若木が植栽され、それらの桜の成長とともに、現在のような松と桜と川が織りなす見事な街並みと景観美が生まれた。昭和20年代と言えば、日本全体が食べていくことで汲々としていた時期だった。

もちろん、われわれ母子は思い切り遠出をしたのかもしれない。宝塚の方向に地図上を辿ると仁川が見える。関西の大学に教えに行ったとき、たびたびこの名前を通り過ぎた。ここで降りて大学に歩いていく学生も多くいた。当時、この川の畔を歩いていたのかもしれない。

10歳になる年に、私は両親とともに東京に転居した。それに真昼間、母が幼児を連れ歩いているのだから学齢に達していなかったに違いない。たぶん4歳か5歳くらいだったか 。当時私は自由学園の幼児生活団に通っていた。毎日通うことはなく、確か週に3日くらいの通園だった。私は虚弱だったので、週に3日の通園も大仕事だった。良く熱を出して寝込んだ。母親は当時羽仁もと子を気に入っており、それで私を自由学園に行かせたのであろうが、それよりも毎日通園しなくても良い幼稚園を虚弱な子供のために選んだのかもしれない。今思い返してみても奇妙な幼稚園だった。園の時間割は、先生が弾くピアノで知らされた。行く度毎に遊戯だったり、演劇だったり、お絵かきだったりと、色々な遊びに溢れていた。勉強らしいものは一切なかった。毎回私は幼稚園にわくわくしながら駆け付けた。子供たちはそれぞれ何かの野菜や果物の印を与えられた。私はタケノコだった。今に至るまでタケノコが好きなのはそのせいかもしれない。卒園して、小学校に上がった時、字がろくに書けず、自分の名前も書けないのは私を含めて少人数しかいなかった。足し算引き算などはちんぷんかんぷんで。これには驚いた。

訪ねた家には中年の夫人がいて、母がおとなうと玄関先で少々大袈裟に歓迎された。どこかよそよそしい雰囲気があった。和服を着たその夫人は母より年長のようだった。何をするために母はその家を訪ねたものであろうか。その夫人が動く度に、衣装の擦れる軽やかな音がした。玄関は綺麗に片づけられていた。母の来訪は事前に知らされていたようだった。当時、電話は一般的ではなかった。私の家にはなく、近所の電気屋にだけあった。時々電気屋のおばさんが走ってきて、電話がかかってきたことを伝えてくれた。恐らく、葉書で訪問を申し入れたのであろう。問い合わせに2日。折り返しの返事に2日。少なくとも4日前には確認をしなければならない。何とも典雅な交流ではないか。ひとつひとつの所作に、昔は趣があって、そして味わいがあった。訪ねる、人を客として招じるというのはこう言うことであろう。しかしながら、ラインあるいはeメールなどでも、この位前に決めておかなければなかなか都合がつくまい。結局同じことなのだ。

紅茶とちょっとした菓子が出された。私は行儀よく、― 玄関先で母は屈んで私の目を覗き込みながら行儀よくしなさいと言った― 精一杯行儀よく紅茶を飲んだ。当時、コーヒーはそんなに一般的な飲み物ではなかった、たいていは、紅茶であった。

二人の会話に私は忽ち退屈した。ソファーから滑り降りて、私は今居る狭い応接間を歩き回った。そこは、玄関脇にしつらえられた応接間だった。部屋に招き入れられた時、どんよりしたかび臭い空気に包まれた。普段あまり使われていない部屋にありがちな臭いだった。

「じっとしていなさい。」と母が窘めたが、夫人は笑いながらそれを許した。夫人から和服に焚き染めた香の匂いが微かにした。「いいのよ。」と夫人は少し大袈裟に声をあげて笑いながら首を捩じって私を見つめた。眼鏡の奥にある少し大きな目はガラス玉のように光って、全く笑っていなかった。私はその許可を奇貨としてそっと廊下に出た。そこには我が家では嗅いだことのない臭いが漂っており、冷え冷えと静まり返っていた。その夫人以外には、誰も居ないようだった。仄かに便所の臭いがする廊下を辿ると二階に続く階段があった。昔のトイレは汲み取り式であったので、どうしても臭いが漂って、それが悩みの種であった。

私は少し軋む階段をのぼり、あがってすぐの部屋に滑り込んだ。机があって、その横に本棚があったのを覚えている。本棚に並んだ難しそうな書籍の背表紙を見て回ったが私の興味を引く本はなかった。後で母から聞いたのだが、そこは関西の有名な私立大学に通う学生の部屋で、件の夫人の息子だった。窓から日が差していて、窓際には鉢植えが置いてあった。記憶に残る印象は二つあった。一つは臭い。大人の、それも男性の体臭が微かながら部屋に漂っていた。しかしながら、我が家のように煙草の臭いはしなかった。そして、アコーディオン。机の横に置かれていたが、私にとって初めて見るもので、最初は楽器かどうかも分からなかった。持ち上げてみると重たかったのを覚えている。ピアノのように鍵盤が並んでいて、持ち上げた拍子に、鍵盤のどこかを触ったのか、眠っていた猫を持ち上げた時のような柔らかい鳴き声に似た音がした。それで楽器だと分かった。アコーディオンは、1800年代にドイツ人によって発明されたが、わが国で大きく普及したのは戦後だったようである。学校の教材に取り入れられ知られるようになったとされる。私も、そんなに昔から知っていた楽器ではない。寧ろテレヴィの普及と同じくらいの時期に親しんだような気がする。歌の伴奏などをしているところを、時々ブラウン管で見かけた。どんな歌でも曲でも伴奏をすることができるアコーディオン奏者がテレヴィに登場して、器用なものだなと感心したことを覚えている。

部屋に戻ると用件が済んでいたものか、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。昔から、私も人と会うと会話をどうやって続けていけばいいのか分からず、苦しむことが多かった。いったい、人はどうやって話題を探してくるのかと悩んだ。定めし母も話し下手だったのであろう。サラリーマン時代、新橋の駅前でビラを受け取ったら、話し方教室の紹介だった。よっぽどその教室に通おうかと思ったりもしたが、授業料の高さに肝を潰して断念した覚えがある。湯川秀樹のエッセイを読んだら、作文が下手だったことが書かれており、意外さに驚いた。彼ほどの天才なら、書く材料に困らなかったと思ったからだ。人は意外なことで人知れず苦労しているのだ。

二人は用件を済ませると特に話すこともなかったようだった。さほど親しい仲でもなかったのだろう。記憶はそこで途切れている。一体どのような用事で母はその家を訪問したのか。用件は果たされたのか。そしてわれわれ二人は、そもそもどのようにして帰ったのか。