1.荒井発言が持つ意味

岸田首相の荒井秘書官が2023年2月3日夜、オフレコを前提とした記者団の取材に応じた際に、同性婚についての見解を問われ、「見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ。人権や価値観は尊重するが、認めたら、国を捨てる人が出てくる」と言うように受け止められる発言をしたと一部のマスコミが報道をした。この発言は一部だけを切り取ったものであって全体の趣旨が不明であるが、尤もな部分を含んでいるものと感じている。首相としては馘首もやむを得ないのであろうが、先ずもってオフレコを暴き立てたマスコミのいつもながらの嫌らしいやり口に虫唾が走る思いがした。これは取材を受ける者と取材をする者の間の信頼関係に係るものではなかろうか。録取をしているから間違いはないということなのかもしれないが、これを認めるとすれば、本音をひた隠しして「アーウー」とばかり言っていたバカな宰相が正しかったということにならないだろうか。

ところで、LGBTとは、“L”=レズビアン(女性同性愛者)、“G”=ゲイ(男性同性愛者)、“B”=バイセクシュアル(両性愛者)、“T”=トランスジェンダー(生まれた時に割り当てられた性別にとらわれない性別のあり方を持つ人)など、性的嗜好性少数者の総称である。最近この問題について、何かと目にすることが多く、またこれについて立法化の動きも見られる。この発言を聞いて先ず思ったのは、首相近辺では、この荒井発言にみられるような本音をもともと持っていたのであり、常々そのような意見を交わしていたのであろうという憶測である。そして多くの健全な日本人であればそれと同じように感じているに違いないということでもある。そのような趣味と言うか性向を持つ人との接触は、あるいはあり得るとしても、出来れば積極的には関わりたくないし、日常で接した人物にそのような傾向を知った時の仄かな感情のさざ波は嘘をつくことが出来ないものであろう。それは必ずしも否定的ということにはならない。そうか、と思うだけである。しかしながら、日常生活の中で、近辺にこのような人物が住んでいるということは、少々気味の悪さを感ずる場合もあるのは自然なことではなかろうか。いわゆるオカマと一晩過ごした男優が、その妻から三行半を突き付けられた事件は有名であるが、何しろ面倒な話しであると思うことは無理からぬところであろうし、例えば幼い子供が居るとすると、さしあたりその子の身の安全について案ずるのも母親としては自然な思いではなかろうか。

ただ、ああもう嫌だ、日本から海外に亡命したいと言った著名人が居たが、だからと言って日本人がこの問題で海外に亡命するべきかどうかについて論ずるのは、いささか突飛過ぎる発言であると思う。むしろどちらかというと、特殊な性向の持ち主の方が、わが国の状況に息苦しくなって、より自由で受け入れてくれると思う海外(実は、これも幻想であって、米国人で激しくこの種性向を難ずる人物もいたのであるが。) に逃げているように思うが。

むしろ、この種性向について物分かりの良い顔を示すヴァチカンにも限りない違和感がある。カトリックでは聖職者は原則として独身を強要されており、このため頻々として性被害事件を起こしている。この聖職者に対する2千年以上に及ぶ独身強要は限りないパワハラかつセクハラであって、これを止めない限り性被害はなくなることはなかろう。したがって、この点での改善を強く望むものであるが、その余のことについてヴァチカンは限りなく頑固な保守であり続けて欲しい。世の中に存在する思考の軸が軽々にぶれると訳が分からなくなると言うものである。

 

2.棲み分けの試み

 昔から、例えばデザイナー、芸術家、役者あるいは美容師などの分野では、LGBTと見られる人たちが大勢いて、独特の感性から来るであろう美あるいは表現を見せてくれた。われわれは、これらの人たちから溢れるような恵みを受けてきたのである。この世界にそのような人たちが現に存在しており、その人たちから恩恵を受けていること、それをわれわれは知っていた。しかしながら、それをありのままにそっとしておくということがなぜ出来ないのであろうか。LGBTについて、それこそ文字通り前のめりになって立法化を進める人士が居るが、何をもって法律としたいのであろうか。法律というものは、いつから左様に絶対的な存在となったものであろうか。時間の経過とともに社会と言う織物に現れる柄、模様あるいは色合いとしてLGBTの人たちが参加する貢献と言ったようなものがあるのかもしれないが、しかしながらそれはLGBTそのものを絶対視して、それを社会制度としての骨格に組み込む必要があるものであろうか。それは紛れもなくかつて正常とされていた異性恋愛とか、妊娠・出産と言われる一般的な営みに対する歪んだ偏見ではないだろうか。この点には、立法化しなければ取り締まれないとか、根拠が無いと言う知的怠惰がこれだけ英米法の影響を受けているにも拘わらず官界、学会そして警察も含めて広く覆っている。

昔の落語を聞くと、主人公たちが色町などに繰り出してそこで楽しそうに様々な逢瀬を花魁とし、あるいは文人墨客と言われる類の人たちが自由恋愛を謳歌することが小説などで極めて当たり前のように語られていたが、知人の高名な医者に言わせると、それとともに性病が蔓延し、それに掛かった当該人物達が正常な他の人たちにもそのような災厄を広めたいと唆しているに過ぎないと喝破していたが、なるほどそのような見方もあり得るかもしれない。芸術家になるからと言って、ホモやゲイになる必要はなかろう。紛れもなくそこには、棲み分けがあるのであって、相互にそれを認識していればすむはずである。

 筆者も男子校に在籍したことがあって、そこではゲイに類する傾向が時々見られた。中学に上がった頃、先輩の中にギリシャ風とでも言うべき美少年が居て息を飲んだものである。運動部によくある、あるいはよくあった先輩による後輩のかわいがりを忘れてはならない。しかしながら、それは一時の言ってみれば気の迷いであって、生涯そのような傾向が続くことはほとんどないものである。かつて、旧制高校あるいは軍の学校でも似たような現象があったようであるが、だからと言ってそれを推奨しているわけでもなかった。

 

3.同性カップルに対する保護制度

 テレヴィを視ていたら、同性カップルが出演して、家族に与えられる様々な地方公共団体などによる支援が届かぬことを難じていた。これはこれで何とかしなければならない。家庭は育児の拠点であり、そのような家庭は子供(そのカップルは体外受精で子供を得ていた。) が居る限りは出来るだけ保護を加えるべきである。子供は別に養子でも構わない。要するに子供を目指して、そのような家庭にも保護を加えるべきであろう。

 憲法云々を持ち出す例もあるが、両性とは異性と限らぬような気がする。すなわち、憲法の趣旨は家制度の保存のために個人の同意、合意以外にかつて存在した、例えば家同士のコンセンサスなどを排除しようとするものでしかない。

 ただひとつ気がかりなのは、偽装結婚である。異性同士でも最近よく見かけるところ、両性同士も含めてかような事態が許されるとなると、当然件数は増加するであろう。それを見抜く責任を、役所だけに押し付けるのもどうかと思う。

 結論としては、両性カップルの社会制度化は、偽装問題などの摘発に相当なコストがかかることを考えると現状無理と言わなければならない。ただし、事実問題として起きた同性カップルの上に起きた例外的な問題については、やはり役所に縋って個別具体的に解決する他はないだろう。

 

4.人との触れ合いの持つ意味

昔の陸軍将校であった人物と交流があったが、ある日その老人が悄然としているのを見てその訳を尋ねると、彼は「区助が死んだ」とポツリと言った。区助とは陸軍士官学校にあった区隊長のことであるらしく、士官学校では新入生は何人かがひとまとめになって、先輩の区隊長が公私ともに面倒を見ることになっていたが、兄弟以上の交流があったようである。あの二・二六事件の首謀者であったとされる村中幸次も区隊長であった。相当な人望があったということであろう。そして、中には区隊長との間に体の触れ合いのような仲に及ぶ例もあったやに聞く。その老人は、先輩死亡の報に接して大丈夫であろうかと危ぶんでいたが、区隊長の先輩が亡くなってほどなくして後を追うようにして亡くなった。

このような同性愛と言うより、思春期・青春期における同級生・同窓生間の友情と言ったようなものは男子校、女子校あるいは英国のパブリックスクールなどでも散見された現象である。そのような絆は、良いか悪いか一概には分からないが、たいてい長くかつ深いものがある。しかしながら、それは肉体関係というよりは、むしろ人間的な触れ合いというべきものではなかろうか。

ひところ、街中で話しかけた人物の家に付いていくテレヴィ番組をよく観ていた。そこで、元パーサーだった老人の家を訪ねると言う放映に遭遇した。訪れた彼の部屋は実に趣味の良いところだった。彼はわが国を代表する大きな航空会社のパーサーだったが、今は亡き元パーサーの老友について語っていた。その友人も、別のこれまたわが国を代表する航空会社の社員であったが、遠い異郷の空港で偶さか出会うその友人との心弾むひとときと逢瀬について目を潤ませながら話していた。彼から色々なことを教えてもらい、豊かな知識を与えられたと語り、例えば音楽、美術などと言いながら、手近にある外国語の書物を取り上げて説明をしたりしていたが、それを聞いていた視聴者の中に、彼が件の友人に教えられた内容とは衆道のことであろうと理解した無粋な者はほぼ居なかったであろう。馬鹿馬鹿しい限りではないか。彼らの個人的な交流について、少なくとも私は不潔だとも異様だとも思わなかった。ただ、そっとしておいてあげたいと思っただけである。

この世は様々な苦しみに満ちている。そしてその種の性向を持つ人々も言い知れぬ悩みを抱えて生きているわけである。だからと言って、そのような性向を表ざたにして権利化することにどんな意味があるのであろうか。しかも、そのような権利侵害はそれ以外の案件と共に裁判所で審理されるのであるが、現代の司法を支えているような幼稚な裁判官に判断を委ねること、正当性を与えてもらうことに何の意味があるのであろうか。