大学の講義案を作っている。敬愛する先輩から商法のテキストを貰った。参考にせよということであった。内容をパラパラ見ると、中央大学のOBが作ったもので、少し古いものであるが特に悪くはない。忝く参考にさせて頂くことにした。
ところで、そのテキストの著者を見ていたらひとりの人物の名前を見つけて、暫し感慨に耽った。まだ私企業の法務にいたころ、その企業の中でコーポレート法務を根付かせようと苦闘をしていた頃だった。当方は完全に出世コースから外れていて、手を差し伸べてくれる上司もおらず、全くの手作りで法務部門を設計していた。勢い性格は鋭角にならざるを得ず、理解のない社内で顔貌にも狷介な雰囲気が滲み出るということで、まあお世辞にも融和的なサラリーマンではなかった。が、だからと言って、いい加減な年齢にもなっていたので、周囲との折り合いが特段悪い訳でもなかった。
そのような頃、この本に記載された名前の学者が外部監査役として天下って来た。一体、いかなる経緯でわが社のポストを占めるに至ったのか、その方がよっぽど問題であろうが、件の人物は人の好さそうな温顔であちらこちら歩き回っていて、そのため、私とも顔見知りとなり、会えば挨拶を交わすくらいにはなっていた。ある日監査役付に昼食に誘われた。この御仁とは、時々昼食を食べる仲であった。いつもの待ち合わせ場所である1階のロビーに行くと、例の学者がニコニコしながら監査役付と一緒に立っていた。そうして3人で昼食を取ったが、特段の話柄はなく、一般的な世間話だった。3人の会食はその後もう1回あったと記憶する。
ある日監査役付を昼食に誘うと、例の外部監査役と昼食を取るから君とは行けない旨申し渡された。彼曰く、監査役付は私を好いておらず、同席は出来兼ねるとのことであった。私はデスクの電話を切ってぼんやり窓外を眺めた。私の疑問は、いったいこの社外監査役はどのようにして私を値踏みしたのであろうか、と言うことだった。数回の昼食で、世間話をしただけで人の評価は決まるものであろうか。食事のマナーの問題であろうか、あれこれ考えた末、たどりついた結論は、彼は私の社内評価を知り、自分の眼で私を値踏みするのではなく、社内評価で私を弾いたのである。これは、会社内ではありがちな処遇で、出世コースから外れると、それだけで俗に言うバッテンが目に見えない印として背広の背中に付けられる。それを知ると後輩すら軽んじ、ゴミでも見るような目でみるのであるが、この学者は残念ながら同様の手順で、自分の判断過程を省略したのである。人は面倒な判断をせず、つまり自分の頭で判断することはせず、誰かの判断、何かの外部的権威に凭れかかって、ものごとを決めがちなのである。これは考えてみれば恐ろしいことではないか。