最近、保育園を巡る事件が絶えない。ついこの間も、保育士が特定の園児を虐めていたと言う記事があった。虐めの原因は不明であるらしい。

それを読んでいるうちに、私の記憶からぽっかりとある記憶が蘇ってきた。

昭和30年代というから随分古い話しである。父親が転勤すると言うので、私と母親も神戸から東京に一緒に引っ越してきた。

社宅が世田谷だったので、私は創設間もない八幡山小学校に通うことになった。私は4年生になっていたが、上級生は5年生だけで、6年生は居なかった。今思えば、そこの教員はあちこちから寄せ集められた人士に相違なかった。そのせいか、個性的な、と言いうより荒っぽい教師が多かった。特段左翼思想というわけでもなかったが、軍隊帰りの教師が混じっていて、体罰が至る所でよく見られた。

夏になると校庭は草ぼうぼうとなった。学校は、もともと雑木林と畑であったところに建てられていた。雨が降ると、校庭は田んぼのようにぬかるんだ。夏休みをあげて、運動場の草刈りにわれわれは駆り出された。父兄もたくさん参加していたように思う。

転校のストレスのせいか、私は4年生の冬休みから繰り返しインフルエンザに懸かり、5年生の新学期になったころ、リューマチ熱に罹患した。入院を経て自宅療養となり、5年生のほぼ1年間を棒に振った。6年生になる新学期から登校を始めたが、初日に校長室に呼ばれた。校長から、他の生徒の出席日数をすこしずつ削って私に付け、私を無理やり進級させたと、伝えられた。私も母親も、5年生をもう1年繰り返すことになると覚悟していた。校長は、とにかくどこか有名私立に入ってくれと言った。この学校の置かれている状況が朧気ながら察することが出来た。

ところで当時の東京で関西弁はやはり珍しいものであったのであろう。私は同級生からも虐めを受けたが、驚いたことに何人かの教師からも虐待に近い虐めを受けた。よほど関西弁が気にくわなかったのであろう。何かおちゃらけて見えたのかもしれない。中でも長島と言う教師は、病気が治って学校に出て来たら、どこからか転任してきていたが、私を追いかけるようにして虐めた。昼休みに教室でボーッと立っていたら、突然背後から殴られたのには驚いた。彼は別に担任でもなく、いかなる職務であるのかもさっぱり分からなかったが、校内放送で私のことを悪し様に罵ったこともあった。何が気にいらなかったのであろうか。あるいは他の教師と同様関西弁のせいかもしれない。今のように関西弁が、何の違和感もなく東京で受け入れられるようになるとは当時は思えなかった。私は、必死で言葉を直そうと焦っていたのを覚えている。

 つい最近、ほぼ50年ぶりに小学校を訪れた。というのは、私は下町にある私立中学に進学したため、当時小学校にいた同級生の消息がわからなくなっていた。流石に何人か仲良くしていた友人もいたので、彼らの消息でも分からないかと小学校に行って当時の書類などを見せてもらおうと思った。ところが、小学校には当時の記録が無いと言うことだった。しかも、私の卒業年次を含めてその前の記録が欠けているということであった。

そこに居た教師は、

「そんな前からこの学校はあったのですか。」と珍しそうに言った。

 これには呆れた。

 それと同時に、私がこの世田谷で生活をしていたと言う記憶は、ひょっとして幻であったのかもしれないと言う、心細い気持ちを抱いた