1.宗教が政治に関与してはならないというのは、不磨の大典のようになっている。しかしながら、果たしてそれは現代においても正しい、あるいはありうべき姿なのだろうか。
かつて、ローマ法王庁が欧州各国の政治に深く関与していた反省から、政教分離と言う理念は出来ているように思う。しかしながら、これは普遍的なものではなく、欧州の一想念であって、例えばイスラム圏では政教は一体化しており、恐らくは東南アジアの諸国でも多くの場合仏教は政治にかなり関与してきたのでもあろう。わが国でも古来仏教がかなり深く政治に関わってきた時期もあったようである。
さて、そこで問題はさように深く関与することでいかなる弊害が具体的に政治上にあるのであろうか、ということである。極めて大雑把な把握だが、本来昔の欧州では、宗教は国単位で定められていた。それが、時代を経るにつれて領主単位で認められ、さらに個人の信仰が許されるようになった。それでも、実際民衆はずっぷりキリスト教に埋まっていたのである。キリスト教の中で、生活が行われ政治も行われていた。しかしながら、例えばイスラム教は認められず、プロテスタントも当初は容認されなかったのである。ユダヤ教は、差別の対象でもあっただけではなく、これは命に係わる問題であったことは、歴史を見れば明らかである。これは、宗教が直接の問題なのではなく、ユダヤ人の持つ別の特徴から来る差別であるとの考えも成り立つであろうが、やはりユダヤ人が迫害されることで、ユダヤ教も割を食ったことは間違いない。キリスト教も、ユダヤ教から見ると一分派であって、かつユダヤ教系の新興宗教と言うことであろう。
カルトかどうかの判断は、献金の多寡で概ねわかるものである。クリスチャンであれば、献金は毎日曜日の教会での100円程度がせいぜいであろう。もちろんもっと多くの献金をする信者もいるだろうし、例えば教会の修復とか何か目的がある場合は、数万円程度のことも数百万円レベルも場合によってあろうが、そこにあまり強制性は感じなかった。仏教はどうか。お布施を中心に、お盆などに数万円多くても10万円前後だろうか。
新興宗教の場合、とある教団にすってんてんに財産を取られたと言う人もいたので、何とも言えないが、恐らく、PL教団、天理教、崇高真光、金光教、真如苑などあまたある新興宗教は一般的にはそこまで信者を追い詰めることはないような気がするが、いかがなものであろうか。そのあたりは。多くのお布施を求められても毅然と断るという信者の気構えの問題でもあるだろう。だめなものは、だめと言えばいいのである。創価学会は難しい。新興宗教の部類かもしれないが、そもそも仏教でありもうだいぶ成熟しているような気もする。キリスト教もローマ時代には新興宗教として、共産主義的な共同生活をし、下品なしかも攻撃的な言動と激しい勧誘で、当時の常識的な人が眉を顰めていたようでもある。この辺は、辻邦生「背教者ユリアヌス」に活写されている。
2.いつから統一教会を知ったのだろう。昭和45年頃、近所で統一教会と言うカルト教団があって、ひっかかると俗に言うケツの毛まで抜かれると言う噂はあった。そもそも、新興宗教全体にうさん臭さはあった。それは多くの場合、現実に生身としての教祖をたいていの場合見ることができて、どうも尊敬の対象とする気にならないことから来る場合もあるように思う。しかしながら、それは個人の自由であって、デーブ・スペクターもテレビで言っていたが、精神的に支配をしたり、されたりすることは本来個人の自由に属する問題であって、規制できないと言っているのは正論であろう。
さらに、統一教会は他の教団と少し違っていた。多くの自民党議員が大なり小なり縁を持ってきたのは、その反共的側面によるものであろう。大学に入ったころはまだ新左翼による学生運動が激しかったが、勝共連合と言う団体があって、当時としてはまっとうなことを言っていた。先生方のなかにもこの勝共連合の学生については容認しておられた、少なくともシンパシーを感じていた先生も多くおられたはずである。教育界が今のところ沈黙を守っているのは解せないことでもある。
さらに、世間には朝日新聞をはじめ反政府的な言論が横溢していたが、世界日報と言うこれまた他のマスコミとは異なる切り口を示す保守的なマスコミもあった1。このような側面から保守層はアプローチされたものでもあろうか。事実岸元首相は、あきらかに勝共連合の観点からこの集団を支持していたように思う。反共の層は当時、団結をすることが一番大事であったので、ある程度の異質性は目をつぶっていくしかなかつたのかもしれない。ただ、信教の自由は認められており、そのような信者が政治に関わってはならないということを闡明できる向きが果たしてマスコミ界にあるのだろうか。現在も幸福の科学が政党を持っていて、その政策理念自体には保守層として共感を覚える点があるものの、だからと言ってこの宗教に帰依しているわけでもなかろう。
3.ジャーナリストの伊藤なる旧民主党系の人物が、中立を装って芸能人の反社会的勢力との交際と比較して統一教会と自民党の関係を難じているが、これは正しいのだろうか。まずもって宗教教団は反社会的な存在なのだろうか。これは共産主義など無神論者の持つアヘン説に通底する宗教観と同断ではないか。個人的実感では、隣国に10何億もの無神論者の群れが居ること自体、ぞっとするのだが、それは人それぞれの趣味ということなのであろう。かつてオウム真理教なる教団、と言っていいかどうか、があって政府はテロ集団と考え、それを潰した。それは正しいことであったと思う。その後、いわばこの教団は分派しつつ地下にもぐったような形になってしまっている。これではかえって把握しづらい。公安が統一教会に手心を加えているように見えるのは、あるいはその反省があるのかもしれない。いずれにしても、統一教会は、まだオウムほどひどくはないような気もするが、どうなのであろうか。だいたい、統一教会が、米国とわが国だけに蔓延している流行病のようなマスコミの扱いだが、例えば、支那あるいはロシアにはこの教団は布教していないのか。欧州はどうなのか。あるのかないのか。あるいは活動をしているのかしていないのか。しているとすればどの程度か。そのような宗教の蔓延を許している、他の国はやはりバカだと言えるのか。
こういうことになると、本当にわが国には基本的人権であるとか民主主義であるとか、と言う基本理念が根付いているのかと疑わしくなる。場合によって信仰の自由も規制してよくなったり、あるいは特定の信者が特定の政党を支援してはならなくなったりするのか。先般の北京における国際的な運動会でもそうだが、あれだけチベットやウィグルなどで支那による暴虐あるいは人権侵害、はっきり言ってジェノサイドがあることが分かっていても、喜々としてアスリートたちは運動会に参加するために出かけた。そしてマスコミもそれに違和感を覚えなかった。自分たちの人権は国より重いのだが、他人のまして他国の人権にははなはだ無頓着であり、ましてそれが支那など特定の国で起きた場合には完全に判断停止するのはなぜか。せめて、アスリートの誰か数人でもボイコットをして欲しかった。
宗教教団は激越な原理主義から始まり、少しずつ成熟して落ち着くのはどの宗教を見ても明らかだろう。萩生田氏が今後の推移を見守るというようなことを言ったことに噛みついていたマスコミがいるが、どうもこれにも違和感を覚える。どこで線引きをしていい宗教と悪い宗教を分けるのか。統一教会の成熟を当面見守ろうと言う姿勢は、政治家としてやむを得ないのではなかろうか。まさか、政治家が信教の自由をあからさまに規制するような言動をとることはできまい。
選挙活動に手を貸してくれようとする人物に対していちいち個人的な信仰をテストせよというのか。つまり、そもそもできないことを政治家にやらせようとしているのだ。なるほど、それは踏み絵のようなある種のおぞましさを感じるがいかがなものであろうか。
ただし、私は個人的には宗教と言うのは周りの迷惑を気にも留めず、原理主義に突っ走っている時期、多くの場合はその教団の勃興期に、ある種の魅力を感じるものであって、実は成熟して飼いならされた犬のように聞き分けの良い老熟した宗教と言うものは、もはや宗教の抜け殻となったものであるような気もする。
私はこの問題が、実は特定の宗教を攻撃すると言う、あってはならない犯罪をマスコミが挙げてやっていることに加え、特定の自民党内の会派を炙り出して虐めているだけのような気がするのである。さらに、この問題を前に息を潜めているある教団子飼いの政党をいたぶる様な風潮も感じられる。特定政党を特定教団が選挙支援等を通じて支援することが、間接的に政治に影響を与えるものであり問題であるとすれば、特定教団が運営する政党についてもやはり問題であるということになるだろう。そして官邸がマスコミによる自民党内の特定派閥攻撃を面白がって見ているような雰囲気があるのも、岸田総理の常日頃持つぞっとするような酷薄さがここでも透けて見えて胸糞が悪くなる
何教であろうと、詐欺商法は犯罪に決まっているのだから、それは取り締まれば良い。だが信者が経済的に大きな損害を被ったから、国に救済を言い立てるのはおかしい。それは信教の自由と言う個人の自由に根差した、自己決定の帰趨であって、家族もやむを得ないことだが巻き添えを食い、その尻ぬぐいをすることになるのである。しかし、それを他の国民ひとりひとりが自分の財布から補填をしてやる筋合いがどこにあるのだろうか。某弁護士も統一教会の悪行についてはどしどし告発をしたらいいが、だからと言って国民にそのつけを持ってくるとすれば、それこそ国民の人権を守る立場の弁護士としては、そもそもお門違いであり適切さを欠いているのではなかろうか。
4.個人的には統一教会は好きではない。ごく親しい友人がこの宗教にひっかかり、家族の前から姿を消してしまったからだ。だが信教の自由というのは、やはり厳として存在し、また遵守されなければならない。この線を曖昧にすると、靖国神社参拝を隣国から叩かれるとおたおたしてしまうのである。個人的には、神社参拝を習俗のひとつと考えており、宗教とまでは言えないのではなかろうかとは思う。しかしながら、神社参拝を宗教の大切な儀式のひとつであるとすれば、外国からとやかく言われる筋合いは無いのである。これはミラノ勅令以降、西欧で脈々と受け継がれた精神の自由を確認した様々な法典に記載されてきており、近くはマグナカルタ、さらには米国の合衆国憲法にも盛り込まれている。もちろん習俗であるとすれば、ほっといてくれと言うことである。だからこそ統一教会の取扱いは難しいのである。
註:
1.最近も、世界日報が刊行したLGBTについてのパンフレットは良作であり、一読に値する。