父親が亡くなった年は実に妙な年であった。私はすっかり忘れていたが、先刻帰宅した里子の娘が記憶を思い出したらしく話した。
元旦に朝のお節料理を食べていると、2度ほど玄関のチャイムが鳴った。誰だろうと出てみると誰もいなかった。正月早々にピンポンダッシュかと訝しく思った。里子の娘は小学校6年生になっていた。思春期の特徴かもしれないが、いうことを聞かず我々夫婦を手古摺らせた。3月11日に老猫が死んだ。この猫は白い毛のオスの雑種で、目が青かった。流産して気落ちしている家内の気を紛らせるために知人からもらった。だから、われわれの心の隙間に入り込んできていて、本当に家族の一員のようだった。3月11日は、東北に震災があった日で、娘はそれが印象的だったようだ。少し前に首にできものが出来た。獣医に見せたら切除しましょうと言われた。どうやらその切除がいけなくて、その後発作を起こすようになり、呼吸困難にもなった。その日は朝から発作を繰り返して目を離せない状況だったが、夕食後片づけを終えた家内に抱きかかえられて息をひきとった。どうやら、猫は可愛がってもらっていた家内が抱いてくれるのを待って死んだものらしかった。家内は号泣し、私は気が触れるのではないかと案じたくらいだった。
4月1日には、父親が亡くなった。これも思いがけないことであった。心臓が悪かったが、平生割合健康であったし、食も進む方だったので、どうも心臓が少し具合が悪いからと念のために東大和病院に入院しましょうということになったが、まさかいきなり死ぬとは思っていなかった。葬式の最中に、社命で転籍した社団法人から電話があり、休暇をとっていることについてのけん責を受けた。父親の葬式だからと説明したが、普段から居心地が悪く色々虐めにあってはいたものの、それにしてもあまりの酷薄さに辛い思いがした。
5月に中学に上がった里子を突然足立区の児童相談所が引き上げた。それから1箇月は死に物狂いでその里子を取り戻すために、奔走した。職場での虐めもあって毎日疲れ切って、私は2階の寝室で眠りこけていたが、里子の娘はしばしば1階の廊下で家内が過呼吸で倒れているのを目撃していたらしい。里子が引き上げられてからも、家内は具合が悪そうであった。家内に何かあったらどうしようかと、私は1日1日不安の内に過ごしていた。そうして、私は力ずくで、里子を奪還した。