昭和34年ごろに親の転勤で神戸から上京した。素朴な印象であるが、東京は神戸に比べて田舎であると思った。東京駅までこだま号で6時間ほどかけて来た。佐々木の伯母が駅まで迎えに来てくれていた。中央線で新宿に出て、京王線に乗り換えた。京王線の新宿駅はまだホームが地上にあった。そこから角筈を眺めることができた。デパートの二幸があった。おっとりした良いデパートだった。地下に古本屋があって、空飛ぶ円盤の本を置いていた。西口はごたごたしたバラックのような店がひしめき合っていた。この田舎町であるとの印象が逆転したのは、昭和39年ごろからではないかと思う。オリンピックを経て、東京は紛れもなく世界に冠たる都市になった。

上京というのは、子供にはこれはけっこうこたえるものだ。小学校4年から世田谷区立八幡山小学校に通い始めたが馴染めなかった。小学校5年の時インフルエンザを拗らせてリュウマチ熱になって、ほぼ1年間休学した。6年生の時に復学したが、初日に校長先生に呼ばれた。他の生徒の出席を削って私の出席数を増やしたと言われた。そして6年生に進級させたから、ぜひどこかの有名中学に入って欲しいと言われた。これには困惑した。

食事は何もかも塩からい味付けなので困った。蕎麦屋に入ってそばを注文すると、出てきたソバの汁が真っ黒なのにも驚いた。店で買い物をすると、つっけんどんに言われているようで、恐怖を覚えた。牛肉がまずいのにもがっかりした。父親は「靴底を食べているようだな」などと冗談を言っていた。が、豚肉はこちらの方が美味だったように思う。何しろ、色々神戸とは違っていた。

八幡山駅から南に行くと、通り沿いに松沢病院があった。病室の窓から患者が道を通る女の子に声をかけたりして怖がられたりしていた。病院の塀に隙間があって、子供たちは中に入って患者さんと遊んだりしていた。院内に池があって、患者さんと並んで釣りをしている友人もいた。しかし、何か事件があって塀の隙間は塞がれ、出入りができなくなってしまった。

夕方になると、評論家の大宅壮一氏が電車から降りて、われわれの社宅の前をひょこひょこ歩いて自宅に帰るところを時々見かけた。なかなか威厳があって、町内の人も敬愛しているようだった。

オリンピックの時、マラソンを甲州街道まで見に行った。待っていると、地響きが遠くからして、選手たちがあっという間に走り過ぎて行った。その速いのには驚いた。ほぼわれわれが全力疾走をする速さではなかろうか。

近所に居る八木君や西君と仲良くなった。わたぬき君は、学校の前に家があった。大きな農家だった。それなのに、いつも寝坊をして遅刻をした。そのおおらかなところが好きだった。

あの頃は、八幡山は駅の周辺に商店が少しあるばかりで、少し駅から歩くともう市街は途切れ、一面の畑と雑木林となった。それでも、ところどころに店があるにはあって、覚えているのは坂本と言う蕎麦屋が、少し行ったところにあったくらいだった。社宅の隣には小さなベークライトの工場があった。