昔、ドイツ文学者の高橋義孝氏が世間のあれこれについて慨嘆していたが、歳をとったせいかいろいろなことが気になるようになった。プルン考などと言って、意味もなく女の子などが首を振るのを嫌がっていたが、最近は男子でも見るようになった。つまり長い髪をふる仕草だが、気になるなら五分刈りにでもすればいい。そう言えば五分刈りにした教師が処分されていたが、気の毒な次第だ。本人の意思に反して、と言うが教育に本人の意思もクソもなかろう。

たとえば、背景のイントネーションである。テレヴィを視ていると、拝啓のイントネーションでしゃべるアナウンサーが居るのにはあきれる。昔は随分厳しく先輩が躾けたものであろうが。芸能人ならいざ知らず、背景を拝啓とは。

最近耳障りな言葉としては、やはりテレヴィなどのグルメ番組で、しおあじ(塩味)のことをえんみと言う輩が多い。なんのためにえんみなどと言うのか判然しない。あまみ(甘味)と言っていて、かんみとは言わない。と思っていたら、最近はかんみも使うようになった。なぜ大和言葉を避けるのか。どこかの国の陰謀か。大和言葉を使わず、わざと音読みとしているのは、何か政治的に含むことでもあるのか、と思わざるを得ない。

そう言えば、美味をい評するに「めちゃくちゃうまい」などと言う。めちゃくちゃとは、混沌ということであろう。なぜ、混沌に美味いのか、判然しない。

これもテレヴィを視ていると、手皿をする人物がチョイチョイ居て、これをみると興ざめである。時々その手に食べ物の汁などが落ちている。おいおいその手をどうするんだい、と思う。昔の人も、あんなことをして食べたりしたものであろうか。不間だねえと思うのだ。

雨の日にすれ違う時は、傘を外側に傾けてすれ違ったものだ。それが内側に、つまり人の方に傘を傾げて通り過ぎる人が多くなったのにも驚かされる。しかも結構な年配の人士などでもさような仕草をするのには遺憾千万である。