2.経済復興の真意
戦後、われわれは栄えある日教組の教育を受けた。小学校低学年のある日、授業の開始とともに、いつもの担任ではない教師が教室に入って来た。担任は休みだからと唐突に告げられた。放課後、家に帰る途中、その教師が街中を練り歩く日教組が立ち上げたデモ隊の中に周りの仲間たちと笑いさざめきながら居るのを見つけた。かようにして戦後教育が施され、それが見事に結実したのは、昭和44年ごろからわが国全土に燎原の火の如く広がった学園紛争であるかもしれない。ただ、戦前もある意味そうであろうが、戦後世代のわれわれもまた、教師の言葉をそのまま真に受けて信ずる者は少なかった。その検証作業こそが、学園紛争が胚胎する真の要因であったのかもしれない。その結果は芳しくなかったように思う。キャンパスで拾ったガリ版刷りのアジビラには革新系の教師が教えたドグマがてんこ盛りであった。しかしながら、その殆どが、今思い返してみると誤りだらけであった。
ところで、わが国は昭和26年にサンフランシスコ条約を受諾したわけであるが、その講壇で演説をした吉田総理の心中は複雑であったに相違ない。今も昔も国の基本方針は万国共通で、富国強兵にあることは論を俟たない。吉田総理を先頭とする戦後第1世代は、安全保障を先送りとし、とりあえず経済復興を優先させることに舵をきった。しかしながら、それは強兵策を忘れたという訳ではなかろう。戦後第1世代は、実は戦前に思春期を迎えた世代であって、経済復興を担う人々の胸中には大なり小なり自分たちが先の大戦で生き残ってしまったと言う悔恨の情が蟠っており、その気分が、ブラックと言われようが、今日の経済大国建設へと遮二無二駆り立てて行ったものであろう。安全保障を先送りとし、とりあえず経済復興をするべきだと言ういわば密やかな合意、いわば密教があって、安全保障を放棄して、経済復興だけをしようと言うこれまたいわば顕教が、わが国の戦後精神風土を表面上支配してきた。経済復興のためには、絶対的な無戦争状態が前提として必要であった。
しかしながら、論壇では論者の間に戦後の風潮はいわば建前であって、その実は戦前と変わらない一貫した意匠がある、はずという前提があった。平成の御世になって、そのような戦後精神の二重構造を弁えている世代が滅び、団塊の世代が全面的にバトンを受け継いだが、最早下部構造をあくまで隠蔽し、上部構造を祝詞のように宣揚するという基本方針が曖昧となってきてしまっているのかもしれない。
しかも、若い世代を中心としてすでに右傾化が囁かれている。現在の政権のもたつきぶりに、業を煮やした人は多くいるだろう。官邸はマスコミの論調を観測して、それが大衆の大意であると誤解し歩調を合わせようとしているのかもしれないが、庶民は相当に右傾化している可能性が否定できない。民族としてのdignityが大切だと、多くの庶民は気付いているのである。庶民の感覚では、現政権はよほど左傾化していると見えており、ただ立憲民主の極左よりはまだましくらいと映じている可能性が大である。