往時、酔眼朦朧とした憲法講義の中で、根本規範という言葉を聞いた。つまりこれはケルゼン風の学説なのだろうが、小林直樹教授は憲法を改正しようとしても、その前提としてある根本規範は改変ができない。つまり基本的人権、国民主権、平和主義だと言う事である。だから、私は今よく講義で、では今の憲法は要らぬではないかと、冗談めかして言う。英国では不文憲法である。あり得ない話しではないと。まさかと思うが、憲法学者を縛っているのが、このような根本規範のような概念ではないのかと怪しむのである。誰でも、基本的人権、国民主権、平和主義は疑うべくもなく、また否定したくはない。しかしながら、これらの概念を絶対視するところから、憲法学は隘路に迷い込んでいるのではないだろうか。

これらの概念は、結局絶対視すべきものではなく、相対的なものなのだと。平和というが、戦争と戦争の間のつかの間の安らぎでしかなく、基本的人権より国家の永続の方が大事なのは、米国のサスペンス映画で良く見かけるものであるし、国民主権と言うが、主権は実はやはり支配権を持つ者が左右しており、国民にはそこにたどり着く自由を与えられているに過ぎない。

それを思い知ったのは、コロナウィルス騒ぎである。国として何をするべきなのかは、極めて明快であるにも拘わらず、官邸はそのような動きをしていない。憲法が改正出来ない、あるいはしてはならないと言う迷信に惑わされているのは、このせいだ。憲法は要するに政治でしかないのだから、バンバン変えて良いわけであるし、変えなければならない。一国の都合は、つまり最優先なのだから。