あの時、どこにいた?とか何をしてた?と友人同士で尋ね合うことがある。われわれの世代では、そのような時のひとつとして、三島由紀夫事件があげられる。あれはショックだったが、あの事件後学生運動がみるみる退潮したのには驚かされた。ちょうど潮時だったのか、やはり三島由紀夫の影響なのか。テレビを観ていると、慶応大学の応援団員がインタヴィユーを受けていて、感極まりゲロを吐いていた。「あ、吐いた!」などと、インタヴュア-が叫んでいた。神戸の震災もあるが、あれは明け方で、もちろん寝ていた。東京でも揺れがあって、目が覚めたが、関西があのような状態だとは、起きてニュースを聞くまでは分からなかった。
東日本の震災は、関東も相当なダメージがあったが、あの時は講演会の主催者として永田町に居た。自宅に帰るのに苦労したことは忘れられない。もう死ぬまでかような目には合いたくないと思った。
昔の大人たちは、戦時中の話しをよくしていた。「いや、あの時は私はシナに居ましてね云々」とか、「シベリアに抑留されていたころは、」などというのも聞いた。親戚の中には、ゼロ戦に乗っていたと言う者もいた。父親は、武運長久と書かれていた旗を持っていた。終戦直前に応召されたらしい。彼は海軍の予備士官になれたことが、人生で一番の欣快事だったと述懐していた。直ちに、特攻に行くことになっていたようだったが。戦争前、戦時中、そして戦後で、大人たちは、区別して思い出を語っていた。