数えで古希となった。先日、偶偶古書店で亡き友の著書を見つけた。確か、彼は50歳くらいで亡くなったと記憶している。葬儀にも出席した。四ツ谷の聖イグナチオ教会だった。多くのクラスメートが出席して、葬儀は盛大だった。彼はハンモックナンバーでクラスヘッドだった。現役の哲学教授だった。
幕夜眠れない時、彼の著書を披いて指でなぞりながら読む。彼のどちらかと言うと優しい少しどもるような話し声が聞こえるようだった。「トマス・アクィナスにおける真理論」(創文社、1997年第1刷)。鈍根な私には内容はほぼ理解不能だった。短い、あまりにも短いまえがきとあとがきを読んだ。それによれば、彼がこの著書を上梓したのは、40代半ばだとある。あとがきには、やらねばならぬことが沢山あるように書いてあったが、彼に残された時間はさほど無かったのだ。
在学中、私は彼との付き合いを避けていた。何度か彼は私に近づいてきたが、むしろ私が拒んだような感じだった。当時、私は死について考え込み、ほとんど気が狂いそうだった。恐らく軽い鬱症状だったのかもしれない。あの当時は、何を考えていたのだろうか。高校三年生の夏休みに、思い余った私は禅寺に1週間にわたる参禅に行き、秋の実力試験で成績を大きく下げるという、相変わらず周囲が見えないトンチンカンぶりだった。成績を回復するのに結局浪人をして、1年かかってしまった。
奥付にある経歴を見て、彼が早生まれだったとか、京大の理科を一度出て、改めて文科を出たとか。ドイツに留学したとか。色々なことを知った。今更ながら、たくさん話したいことがあったような気がした。彼も聞いて欲しいことがあったに相違ないと思えた。京大の理科に入って、周囲に圧倒的な知性が集っていることに臆したと、風の便りに聞いたことがある。力づけてやりたかった。彼なら負けないと。高い知性など何ほどのことがあるかと。