あれが世に出たとき、いやな気がした。このシートのせいで何かもやもやした気持ちになることがこれから何度もあるのではとおもったが、今日もあった。

ベビーカーを押した若い母親が私の横に座った。なぜ?と思ったが、彼女は意に介せず、スマホを取り出してLINEを始めた。あれ?ここではスマホはご法度では?と思ったが。

やがで、私は立ち上がって降りようと思ったが、カートが邪魔で前に出られない。彼女はチラッと私を見たが、意に介せずスマホを打ち続けている。私は「邪魔だ」と小声で注意して、足でカートを少しずらして降りた。が、周りの乗客からは、恐らくベビーカーを嫌う老人の暴走と映ったろう(事実、嫌いだが。)。年寄りは、なかなか方向転換ができない。加えて私は脊柱管狭窄症で、ますます四肢の動きがままならない。とっさに、「邪魔だ」と言ってしまったが、なにしろ彼女のふてぶてしさとあざとさに呆れた。つまり、私には非協力的な対応をしながら、周りには一種の被害者のような態度をとったわけである。ベビーカーを電車に乗り込ませるとすれば、それは権利なのではなく、他の乗客の犠牲と寛恕によって成り立つ調和の世界なのだ。調和とは、ベビーカーの母親もそれなりに、他の乗客に配慮をしなければならないはずだ。乗せるなとも乗るなとも言わない。とにかく、周囲との調和を忘れてもらいたくないだけだ。