今年の正月は、「ロングウェイホーム」をVHSで借りて視た。このTV版は1980年くらいにNHKの教育テレビで視聴した。当時私はオランダ駐在から帰任したばかりで、心身共に疲れていた。TVは一人で視た。当時私は離婚して独り身になっていた。幼い男の子を引き取ったが、娘は別れた家内に渡さざるをえなかった。その未練をまだ引き摺っている頃だった。
「ロングウェイホーム」の粗筋は、孤児になった兄弟3人が紆余曲折を経て再会するというものだった。ここで出てくる長兄であるデイビッドが並々ならない強靱さで、執念深く妹と弟を探す経緯が胸うたれた。再会のシーンは涙なしには見られない。ただし、映画は、TVドラマで視た内容より、よりすっきりと再会ドラマに纏められすぎている気がした。ドラマでは、それぞれの兄弟の身の上に起きる問題が複雑に描かれていたように感じられた。当時の私は、引き離された娘を追い求めると言う視点でこのドラマを視て、新たに悲しみを覚えると共に、焦燥感にかられたりもした。このような評判の良いドラマが再演されないことを、訝しく思っていた。
ただこの事件を見直してみて、自身も里子を預かる現在の眼で見ると、又新たな感慨が湧いてくる。デイビッドを引き取った里親は、里親家庭に馴染んでくれないデイビッドに悲しい思いを抱くのが、手に取るように判るのである。デイビッドは、生き別れた兄弟と再開することにほぼ自分の人生を収斂させている。結果としてこれは里親にとっては辛いものだろう。わが国であれば、恐らくはこの里子は里親家庭と調和していないとみなされ(もちろんこれはある意味事実であるが。) 、児童相談所経由いずれかの施設に戻されることになる可能性が高いと思われる。これは、二人の兄弟を預かった里親についても大なり小なり言えることではないか。個性が際立った子供を引き受けた里親には困難が待ち構えている。米国では、里子と里親の関係がわが国のそれと比べ、もう少し乾いていて率直である感触、言い換えればより対等の関係であるように見える。
それに、米国の児童擁護センターの役割とわが国の児童相談所の相違についてである。米国では、虐待に主眼を置いた施設になっているように感じられた。そしてそこで働いている職員が、明瞭に児童の立場に肩入れをしているようであった。しかしながらこのあたりは、感覚的な印象でありあまりはっきりしない。かつて米国弁護士に聞いた話しではアメリカでは養子案件について市役所、里子、里親、それに虐待等があれば警察だけしかプレーヤーとしては登場しないと言われた。また、必要があれば養子(里子)には弁護士が付くようであった。児童相談所のような様々な機能を兼ね備えた複合組織は見当たらないようである。映画の中で、養子として最も喜ばれる子供は赤ん坊であると養子(里子)が述べていることも興味深い。里親は施設を訪問して、窓から見た子供を物色して決めると言う。さながらオークションのようであると述懐させている。わが国では養子縁組も里子制度も児童相談所が積極的に関与して決めていく。里親及び里子の意思は、最終的な段階で始めて確認されるに過ぎない。そのような段階では遅すぎるようなことが、あるいはあるのかもしれない。いずれが良いのかは俄には定め難い。養子制度あるいは里親制度について国際的な比較研究を改めてする必要があるかもしれない。