鍼灸院を開院して3年目。漸く年の瀬を迎えようとしている。専門学校を卒業して、当初私は鍼灸で仕事をすることに迷いがあった。もう少しどこかで修行をしてからにしようと思い、とりあえず中央医療専門学校に卒業後研修の申込をした。だが、同級生のK君が突然連絡してきて、一緒に開業しないかと誘われた。彼はすでに多少の経験を積んだ柔道整復師であったので、そのキャリアを頼りに開業することにした。清水開発の百田社長に頼んで、国分寺市内の物件を探してもらった。最初北口に1つ店舗の空きがあったが、どたんばでそれが他所に持っていかれた。その不幸を哀れんで、百田社長は南口の物件を薦めてくれた。私はそれに乗ることにした。殿ヶ谷と公園の東側麓に位置していた。

ところが、当て外れなことにK君は資金を出してくれず、私が一人で資金の心配をするはめになった。どうもK君はそれまで勤めていた鈴木先生の治療所をしくじったらしかった。私は昼間部に在籍していたT女史を頼んで助っ人に来てもらうことにした。Tさんは以前に治療所に勤めていたということで、いくつか私の治療所にノウハウを教えてくれた。ただしそれは先ずカルテが要るというような驚くべきレベルの話しだった。3人は治療所でポカンと座って、1日前を通る人を眺めていた。あるいは、お互いに鍼を打って自分なりに研究をしたりして日を過ごした。一向に誰も治療所に入って来なかった。やがて、ビラ配りをした方が良いのではないか、ということに漸く気がついた。それはトリガーポイントの杉山先生のアドバイスでもあった。しかし2人とも動く気配はなく、パソコンでビラを作っては閉院してからポツポツ一人であちらこちらにポスティングをした。ビラのデザインだけはTさんが直してくれた。あまりにも不細工な出来映えだったからに違いない。技術的な進化をしなければならなかったが、それより食うために資金をかき集める必要もあった。焦燥にかられる日々であった。それにしても国分寺市の創業資金と日本政策金融公庫から幾ばくかの金を拝借したが、日向の淡雪のように人件費として消えてしまった。収益を増やすために人を増やし、仕事を増やしたが、収益より常に人件費の方が上回って赤字が続いた。T女史が脱藩した。そこでまた別にT先生を迎えた。この人はてもみんの店長も経験があるという話しだったが、他の店舗との兼業で一向に当院は落ち着かなかった。別にS君という男性を採用し、さらにIと言う女性を見つけた。彼女は優秀で、店長候補をお願いしたが、ついに経営方針にまで口を出すようになって、その経営思想の相違から袂を分かつようになった。これは私の不徳の致すところだった。