それでもがん放置を実体験した人々の声に接して、恐怖心を以前よりもコントロールしやすくなったのではないでしょうか。ところでもし読者が「がん放置療法」に賛同する場合、たとえば将来「がん」と告げられた時
「何が何でも放置を貫くぞ」、と力む必要はありません。がん放置療法の要(かなめ)は少しの期間でいいから様子を見るという点にあるからです。
その間にがん告知によって奪われた心の余裕を取り戻すのです。そしてがんの本質や性質を考えましょう。
この点では、がんは老化現象です。
年齢を重ねる中で遺伝子変異が積み重なった結果が癌なので、年齢が高くなるほど発がん頻度が上がるわけです。
この点では、がんは老化現象です。
年齢を重ねる中で遺伝子変異が積み重なった結果が癌なので、年齢が高くなるほど発がん頻度が上がるわけです。
そして老化現象なので、放置した場合の経過が比較的穏やかなのです。ただ本物のがんの場合は、老化現象の究極としていずれ死を呼び寄せます。
しかしその場合もなりゆきに癌をゆだねれば、自然の摂理に従って人生を完結させてくれます。
とはいえ、生きていた人間が亡くなるというのは肉体面においては大事業です。
そのために死が近づくと体に多少の軋(きし)みが生じ、苦痛などの症状が生じることがあります。
とはいえ、生きていた人間が亡くなるというのは肉体面においては大事業です。
そのために死が近づくと体に多少の軋(きし)みが生じ、苦痛などの症状が生じることがあります。
それは脳卒中や心筋梗塞のような老化現象も、即死でもしないかぎり種々の苦痛や不自由が出るのですから、がんで症状が出ること自体も仕方がないことでしょう。
大事なのはがんで症状が出ても、緩和の方法が確立していることを知っておくことです。ですから痛みに対して鎮痛剤ではなく、抗がん剤を用いるような治療法の選択の誤りをおかさなければ、日常生活の質を回復させることができます。
こうした、がんについての熟慮期間中には、手術や抗がん剤で積極的にがんを治療した場合に生じる不利益についても考える必要があります。
こうした、がんについての熟慮期間中には、手術や抗がん剤で積極的にがんを治療した場合に生じる不利益についても考える必要があります。
いわゆるがんを叩くための積極的治療と言われるものを受けることで、当初は心の安堵を得られるかもしれません。
しかし人間の体はこれまで医学と言われるものとは無縁なままに進化してきたので、手術や抗がん剤、放射線等で治療されることには慣れていません。そのために合併症や後遺症が起きてくるのです。
そもそも、がんは自分自身の一部です。
ですからそれを叩くのですから体のほうが参ってしまうのは当然です。
そもそも、がんは自分自身の一部です。
ですからそれを叩くのですから体のほうが参ってしまうのは当然です。
したがって治療法に数種の選択肢がある場合、なるべく負担の少ない方法を選ぶのが長生きするコツであるわけです。
その場合、がん放置療法は有力な選択肢になります。がん治療を受けた場合の利益については、医者のほうもさまざまに強調するはずです。
しかし疑いましょう。医者が言う治療法が本当に自分のためになのかどうかを、医者の言葉に裏がないかどうかを。胃袋を全摘して本当に長生きできるのか、集尿袋をつける手術に意味があるのかどうか等、体というものの根本を考え、疑うことが大切です。
少し様子を見る間に、セカンド・オピニオンを求めることも肝腎です。
そうすれば臓器を残す道も開けるでしょう。また早期がんと言われた場合には、誤診も多いので、組織標本を取り寄せて別の病院でもう一度調べてもらうことを心がけましょう。(32頁参照)
少し様子を見る間に、セカンド・オピニオンを求めることも肝腎です。
そうすれば臓器を残す道も開けるでしょう。また早期がんと言われた場合には、誤診も多いので、組織標本を取り寄せて別の病院でもう一度調べてもらうことを心がけましょう。(32頁参照)
もし誤診とわかれば、治療そのものの必要性がなくなります。そうこうしているうちに、時間はあっという間に過ぎて患者や家族としては、その間にも症状が出て進行するのではと思うと心配でたまらないはずです。
しかし本書でわかるように、数ヶ月の間に急速に悪化することはまれです。原則として進行がんであっても、急に大きくなるものではないのです。
もちろん例外として進行がんが急速に増大し、診断から死亡まで数ヶ月というケースもあります。
もちろん例外として進行がんが急速に増大し、診断から死亡まで数ヶ月というケースもあります。
しかしそういう癌はほとんど最初から種々の症状があるのが普通で、それはここでいう「放置療法」の対象ではありません。放置療法は無症状の人を対象としているからです。
付け加えれば無症状であっても急速に増大する癌は、ほぼすべてに転移があるので治療したとしても結果は同じです。
ですからいわゆる、積極的な叩く治療を受ければ合併症で苦しむことになるだけなので、それなら放置して緩和治療に徹することが妥当です。
様子を見始めた場合、心配ならば3ヵ月後、あるいは6ヶ月後というようにもう一度検査をしてもらうのが一つの方法です。もし最初の診断が早期がんなら、がんと診断されたことを秘して別の病院で精密検査を受けてみる。
様子を見始めた場合、心配ならば3ヵ月後、あるいは6ヶ月後というようにもう一度検査をしてもらうのが一つの方法です。もし最初の診断が早期がんなら、がんと診断されたことを秘して別の病院で精密検査を受けてみる。
なぜなら別の機関のがん検診では無罪放免になることも少なくないからで、早期がんを典型とした癌の診断はそれほどに間違いやすく、不安定なのです。このように少し様子を見るだけでさまざまなことがわかり、得することはたくさんあります。
様子を見る間に、万が一がんに起因すると思われる症状が出てきたら、病院に戻ることを検討することもできます。しかし戻ることが必須ではありません。
人は自分自身の主(あるじ)なので、たとえ癌であっても自分の望みにしたがってどう振舞おうと自由だからです。
がんを放置するのは愚かしい行為ではありません。
がんを放置するのは愚かしい行為ではありません。
それは無神経で粗野な医者たちから、体を蹂躙(じゅうりん)されるのを避けるための最善の方法であり、人としての尊厳を回復させる特別な処方箋なのです。
しかも治療がもたらす合併症による苦痛や治療死からも、完全に逃れることができる唯一の方策なのです。
がんを放置することは、思慮に欠ける行為でもない。むしろ本来、がんは「がんもどき」と「本物」に分かれているという、がんの実態にもっとも適した対処法なのです。
とは言っても、がん放置療法を実行するにおいて、医者の無理解や反対を乗り越えるなどの種々の苦労があるでしょう。なかでも問題なのは周囲の無理解です。家族や友人、知人が、
とは言っても、がん放置療法を実行するにおいて、医者の無理解や反対を乗り越えるなどの種々の苦労があるでしょう。なかでも問題なのは周囲の無理解です。家族や友人、知人が、
「がんを放っておくなんて信じられない」「転移するわよ」「すぐ死んでしまうぞ」「放っておいて後悔した患者を知っている」などと、ありとあらゆることを言ってきます。
それでも放置を貫いたら、友人・知人と絶好状態になったという話も聞きました。また私の外来では診察のたびに、患者である娘に心配そうに付き添ってくる母親もいます。
そういう人たちはがん放置療法について深くは知らず、古い社会通念に支配されているだけである可能性があります。
そういう人たちはがん放置療法について深くは知らず、古い社会通念に支配されているだけである可能性があります。
しかも患者本人と個人的な関係にあるだけに、対応するのが厄介であるわけです。
私から見ると、体のことに関しては本人が一番熱心に考えているはずなので、質問された時以外は他人がどうこう言うべきではないと思うのですが、個人主義がいまだ未発達なこの国ではなかなか難しいようです。
ですからがん放置の道を選ぼうとする人は、よほど理論武装をする必要があるでしょう。
ですからがん放置の道を選ぼうとする人は、よほど理論武装をする必要があるでしょう。
が、少し知恵をつけると、もし周囲との軋轢(あつれき)を避けたいなら、
「自分は放置を貫くぞ」などと高らかに宣言するのではなく、「手術には納得できないので少し様子を見たいだけです」とでも言っておき、少し間があいたら
「変わりがないので、もっと様子を見てみたい」とでも伝えて、放置期間を少しずつ延ばしていくのが一つの方法です。
要するにがん放置療法は、患者だけで実行できる唯一の合理的な療法です。
「患者だけ」というのは、原則として医者の力を借りずにすむからであり、現代医療において医者たちに奪われた、自分の体に関する自己決定権を取り戻す究極の方法なのです。
要するにがん放置療法は、患者だけで実行できる唯一の合理的な療法です。
「患者だけ」というのは、原則として医者の力を借りずにすむからであり、現代医療において医者たちに奪われた、自分の体に関する自己決定権を取り戻す究極の方法なのです。
しかも民間療法その他のいかがわしい療法とは異なり、科学的根拠を備えた「合理的な療法」でもあるのです。いずれにしてもがん死亡が増えている現在、私たちはがんやがん治療に対する考え方を根本から見直す必要に迫られているといえます。
それは広く人生感や世界観を養う哲学が求められているだけでなく、ある種の諦観を持つ必要があり、そうでなければ医者やおびただしい検査に振り回されることになるからです。
そうした反応は当然予想していたので、連載を始めるにおいても本当に心苦しいかぎりでした。
それでも筆をとることにしたのは、患者たちが手術による合併症や後遺症、抗がん剤の副作用で苦しみ、治療のせいでなくなった患者の家族の悲嘆にくれている現状があるからでした。
もしそれらの治療が妥当でも必要でもなかったものであったとしたら、それに気づいた専門家は、それを世に知らせる責任があると考えたのです。
がんと闘うことなかれ
前著の『患者よ、がんと闘うな』では、総じて現行のがん治療の負の側面を述べてきました。その内容に得心された方も多いようですが、反面治る夢が打ち砕かれた、がん治療の将来に希望が持てなくなった、などのお便りも連載中にいただきました。読者は本書を読まれて、がんへの恐怖や不安を少しは克服できたでしょうか。
想像するにこれは感情の問題なので、打ち勝てた方は少ないと思われます。