あったことに、灯りを点(とも)す
二十代のほとんどを、
言葉にすれば息が詰まるような、
いくつもの重い責任と役割を
背負って生き抜いてきた。
時には、
誰かの命の選択を、
一人で背負うような
大きな決断もあった。
そんなわたしには、
「苦労知らずのお嬢さんだね」が、
最高のほめことばだった。
その頃は、
「苦労を見せない=美学」 だった。
重たいものを抱えていても、
さらっとしている。
空を見て、
料理をして、
冗談も言える。
それは確かに、
そんなわたしには、
「苦労知らずのお嬢さんだね」が、
最高のほめことばだった。
その頃は、
「苦労を見せない=美学」 だった。
重たいものを抱えていても、
さらっとしている。
空を見て、
料理をして、
冗談も言える。
それは確かに、
ひとつの強さ。
でも、その強さって、
時々
“自分自身まで見えなくしてしまう”
ことがある。
周りから
「苦労知らず」 って言われても、
「隠せてるなら成功」
でも、その強さって、
時々
“自分自身まで見えなくしてしまう”
ことがある。
周りから
「苦労知らず」 って言われても、
「隠せてるなら成功」
みたいに受け取って、
自分の痛みまで
自分の痛みまで
なかったことにしてしまう。
けれど今のわたしは、
「不幸を売りたいわけじゃない。
でも、
わたしはちゃんと
大変な中を生き抜いてきた」 って、
自分自身のために、
ちゃんと認めてあげたくなっている。
過去の自分を、
「平気だった人」
として処理するんじゃなくて、
過去の痛みを
恨み節にするのでもなく、
怖かったことも、
しんどかったことも、
踏ん張ってたことも、
わたしの中に
けれど今のわたしは、
「不幸を売りたいわけじゃない。
でも、
わたしはちゃんと
大変な中を生き抜いてきた」 って、
自分自身のために、
ちゃんと認めてあげたくなっている。
過去の自分を、
「平気だった人」
として処理するんじゃなくて、
過去の痛みを
恨み節にするのでもなく、
怖かったことも、
しんどかったことも、
踏ん張ってたことも、
わたしの中に
ちゃんと居場所を与えたい。
つらいことに直面したとき、
「避けたい」
つらいことに直面したとき、
「避けたい」
「もう嫌だ」 ではなく、
「さて、ここをどう越える?」
って火が入る部分がある。
“変容欲”とでも言うのかな。
痛みそのものが好きってことじゃなくて、
通り抜けたあと、
視界や感受性が変わる感覚を、
どこかで知っている。
だから、
ただ潰れるだけで終わらず、
後からちゃんと
言葉や料理や景色に
落とし込もうとしているのかも。
今、
空を見て、
料理を作って、
文章を書いて、
「今の自分の輪郭」
を確認してる気がする。
そして、その輪郭が、
苦しいことを越えるたびに、
少しずつ深く、
立体的になっていく感覚が、
嫌いじゃないんだと思う。
大袈裟だけど、
“暗いものに触れてなお、
美しいものを感じ取れる自分”
がいると信じている。
これが今のわたしのしれっと美学。

