忘れたくない痛みと、もう一度向き合う時間
やさしさを学び直すための回想録
カテゴリーの海をさまよう
「またかよー!」
これが、アメーバブログをいざ始めようと
カテゴリー一覧を眺めた時の、
わたしの正直な気持ち。
「そうだ!ブログをやろう!」と、
いつものわたしらしい軽いノリで
スタートを切ったのはいいものの、
いざとなると――どこに属せばいいのか分からない。
気づけば、カテゴリーの海をさまよっていた。
「これだ!」と心から納得できる居場所が、
どこにも見つからない。
書く内容自体も曖昧なんだから、
まあ当然といえば当然なのだけれど…。
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とりあえず、
半ば強制的にグルテンフリーな食事を強いられているので、「料理」のカテゴリーにそっと足を置いてみた。
グルテンフリー食材を選び、
一日三食を作って食べて、その記録をアップしているから、形式上は「料理」で間違っていない……はず。
だけどわたしの意識は、
「制約の中でいかに生きていくか」
のほうに向いていて、どうにも落ち着かない。
「料理」というより、
「生き方」や「心の在り方」に近い気がして、
まるで仮の宿に身を置く旅人のような心持ち。
だからインテリア・ライフスタイルに移ってみた。
でもやっぱりここも場違いな感じが否めない。
---
「日記」のカテゴリーを見れば、
職業別だの年代別だの……。
「なんだよ、この時代錯誤は!」
――いえ、
事務局にケンカを売るつもりはありません(笑)
でも、ボーダーレスな時代に、
なぜ人はこうもラベルを貼りたがるんだろう?
なぜ、
わたしを枠の中に押し込めようとするんだろう?
居場所がないという感覚。
「どこもしっくりこない」「落ち着かない」感じ。
実はアメブロに限った話ではない。
物心ついたころから、ずっとそうだった。
正確には
「わたしはどこにも自分の居場所がない」と、
深く思い込んで生きてきた
---
透明人間だったわたし
忘れられない記憶がある。
母の兄の家族の家に泊まりに行ったとき、
わたしだけ食卓に呼ばれなかった。
ダイニングからは、
楽しげな笑い声とごちそうの香り。
母はわたしがいないことに気づいていたはず…
なのに、探しにも来ない。
行けばいいじゃない、と思うでしょ?
でも行くと、会話がピタッと止まり、空気が凍る。
座る場所も作られていないことを、
嫌でも確認させられる。
冷めた汁物とご飯が無言で置かれた時の、
あの惨めさ。
――
"ここにいていい"という言葉
思い出すだけで、今でも泣きそう。
父方の祖父の葬儀で、二人一組でお骨を拾うとき、
誰もわたしには声をかけてくれなかった。
学生時代の球技大会では、
「立ってるだけでいい」と言われたのに、
たまたま来たボールをレシーブしたら
「立ってるだけでいいって言ったよね?!」
と嫌な顔をされる。
ずっと、そんな調子。
ーーー
以前、ブログで「透明人間な私」について
書いたことがある。
それはつまり、
**「居場所がない私」**ということ。
帰る実家もない。
パートナーの実家では、
いつもキッチンで料理か洗い物。
嫌われているわけじゃない。
でも、「あなたのいていい場所はここだよ」
と誰かに言ってもらえないと、
わたしはどこにいたらいいのか
分からなくなってしまう。
ーーー
わたしがいちばん欲しいもの、
それは「居場所がある」という感覚。
つまり帰属意識を持つには、
「ここにいていいんだ」
という安心感が欠かせないのだ。
帰属意識とは、
自分がある集団(家族・学校・職場・友人関係など)の一員であり、
受け入れられ、必要とされていると感じること。
言い換えれば、
**「私はこの場所の一人だ」**と思える心の拠り所。
それが得られないから、居場所が見つからないから、
私はこの肉体を持って「ここにいたくなかった」――
そう思った時期もあった。
「ここにいていいよ」
たぶん、これが私が人生でいちばん欲しい言葉。
このブログが、
**「どこにもしっくりこない私たち」**のための、
仮でもいい、
ちょっと腰を落ち着けられる居場所になったら嬉しいな。
---
💬
読んでくださって ありがとうございました。
同じように
「居場所がない」と感じている誰かに
ほんの少しでもぬくもりが届きますように。
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