雨は、意志を持つ生き物のように夜を這っていた。
私は黒い蝙蝠傘を差し、濡れた石畳を踏みしめながら、その家の前に立った。
二階の窓から、蓄音機の音が洩れている。
古い西洋の曲らしく、旋律は甘美でありながら、どこか神経を逆撫でするように歪んでいた。
その男は、耽美という言葉を生き方にしている人物だった。
部屋に通されると、灯りは落とされ、赤茶けた壁紙と、磨きすぎた黒檀の棚だけが浮かび上がる。
蓄音機は部屋の中央に鎮座し、音盤は回り続けている。
針の震えが、まるで人の鼓動のようだった。
「この音は、美しすぎるでしょう」
男はそう言って、私の蝙蝠傘を壁に掛けた。
その動作がやけに丁寧で、私は理由もなく不安を覚えた。
蓄音機の音楽は、次第に変調をきたした。
旋律が伸び、引き裂かれ、甘さの裏から奇妙な陰影が滲み出す。
私は自分の感覚が、音に侵食されていくのを感じた。
「耽美とは、快楽のことではない」
男は低く囁く。
「耐えられる限界まで、美を与え続けることです」
私は逃げ出そうとした。
だが、傘を取りに行こうとして、はっとした。
蝙蝠傘が、微かに震えている。
否。
震えているのは、私の影だった。
蓄音機の回転に合わせて、壁に映る私の影が、蝙蝠の羽のように歪んでいる。
音楽が止まった瞬間、私は自分が長い時間、微動だにしていなかったことに気づいた。
男の姿は、もうなかった。
ただ、蓄音機の上に一枚の音盤が残されている。
ラベルには、震える文字でこう記されていた。
――「鑑賞用」
雨はまだ降っている。
私は蝙蝠傘を差し、外へ出た。
だが歩きながら、確信していた。
今度あの音を聴くのは、

私は黒い蝙蝠傘を差し、濡れた石畳を踏みしめながら、その家の前に立った。
二階の窓から、蓄音機の音が洩れている。
古い西洋の曲らしく、旋律は甘美でありながら、どこか神経を逆撫でするように歪んでいた。
その男は、耽美という言葉を生き方にしている人物だった。
部屋に通されると、灯りは落とされ、赤茶けた壁紙と、磨きすぎた黒檀の棚だけが浮かび上がる。
蓄音機は部屋の中央に鎮座し、音盤は回り続けている。
針の震えが、まるで人の鼓動のようだった。
「この音は、美しすぎるでしょう」
男はそう言って、私の蝙蝠傘を壁に掛けた。
その動作がやけに丁寧で、私は理由もなく不安を覚えた。
蓄音機の音楽は、次第に変調をきたした。
旋律が伸び、引き裂かれ、甘さの裏から奇妙な陰影が滲み出す。
私は自分の感覚が、音に侵食されていくのを感じた。
「耽美とは、快楽のことではない」
男は低く囁く。
「耐えられる限界まで、美を与え続けることです」
私は逃げ出そうとした。
だが、傘を取りに行こうとして、はっとした。
蝙蝠傘が、微かに震えている。
否。
震えているのは、私の影だった。
蓄音機の回転に合わせて、壁に映る私の影が、蝙蝠の羽のように歪んでいる。
音楽が止まった瞬間、私は自分が長い時間、微動だにしていなかったことに気づいた。
男の姿は、もうなかった。
ただ、蓄音機の上に一枚の音盤が残されている。
ラベルには、震える文字でこう記されていた。
――「鑑賞用」
雨はまだ降っている。
私は蝙蝠傘を差し、外へ出た。
だが歩きながら、確信していた。
今度あの音を聴くのは、
蓄音機の前に座る私自身なのだと。
