その書生は、夜になると決まって人力車を呼んだ。
理由は誰にも告げなかったし、彼自身も説明できぬ衝動に突き動かされているだけであった。
昼の彼は、至って平凡な下宿の書生である。
古びた机に向かい、震えるランプの下で書物を写し、時折、主人の咳払いに肩をすくめる。
だが夜だけは違った。
人力車の幌を叩くと、書生は外套の襟を立て、街へと滑り出す。
石畳を刻む車輪の音が、胸の奥を不規則に打った。
向かう先は、港近くの舶来品商。
硝子張りの陳列棚には、異国の香水瓶、金具の鈍く光る懐中時計、用途の知れぬ器具が無言で並ぶ。
書生はそれらを「物」としてではなく、
自分とは異なる世界の臓腑のように眺めていた。
ある夜、彼は奇妙な小箱を手に入れた。
舶来の細工で、開くと内側に歪んだ鏡が仕込まれている。
覗き込むたび、映る顔が微妙に異なる――笑っているようで、泣いてもいる。
それ以来、書生は眠れなくなった。
昼の書物の文字が、夜の鏡の中で蠢く。
自分が書生なのか、書生を演じている何かなのか、判別がつかない。
ある晩、いつものように人力車に揺られながら、
書生は不意に悟った。
――舶来の品に魅せられていたのではない。
――自分の中にあった“異物”を、確かめに行っていただけだ。
車は止まり、振り返ると、そこに書生の姿はなかった。
残されていたのは、古い外套と、歪んだ鏡の小箱だけ。
翌朝、下宿では「書生が消えた」と騒ぎになったが、
誰一人、夜の人力車の行き先を知る者はいなかった。
舶来の影は、

静かに、都市の裏側へ溶けていったのである。