女は今日も、またタラレバの海に沈んでいた。
 窓の外では夕日が沈みかけているのに、部屋の中は朝からつけっぱなしの電気が薄く照らすだけ。テーブルの上には開封しきれなかったメールの山、昨日のコンビニ袋、冷めたコーヒー。テレビではバラエティ番組の笑い声が空虚に響き、女のため息は十回目を超えていた。



「はぁ……あの時、あっちの会社に行っていればなぁ。
 あの家買っていれば……。
 あの男の誘いを断っていなければ……。」
 タラレバ。
 もしも、あの時ああしていれば。
 もし、あの瞬間こうしていれば。
 女は人生を後ろ向きに歩くことに慣れすぎていた。
 未来より過去。
 希望より後悔。
 選択より反省。
 その繰り返しが、気づけば十年以上続いていた。
 その夜、台所の電球がふいにチカチカと明滅した。
 ブレーカーでも落ちたのだろうかと首をかしげた女の足元で、柔らかい気配が揺れた。
 ——ニャァ。
 黒い影が、するりと姿を現した。
 全身まっ黒。だがその目だけが不自然なほど深い金色で、まるで夜空がそのまま凝縮されたような輝きを放っている。尻尾はふわりと長く、毛並みは光を吸い込むように艶やかだった。
「……猫?」
「猫、という分類で問題ない。」
 しゃべった。
 女は一瞬、自分の耳を疑った。
「あなた、誰?」
「タラレバの猫だよ。」
 猫はテーブルに軽やかに跳び乗った。
 コーヒーカップがかすかに揺れる。
「君は毎日“もしもあの時”ばかり考えているね。
 だから困っているだろうと思ってね。」
 猫は尾を揺らしながら言った。



「特別に、君のタラレバを叶えてあげよう。
 “あの選択をしていればこうなっていた”という世界へ、好きなだけ送り返してあげる。」
 女は息を呑んだ。
「……本当に?戻れるの?」
「戻れるとも。願うたびにね。」
 女は震える手を胸に添えた。
「でも……どうせ大それたことじゃないの。ほんの些細な……」
「それでいい。些細な後悔ほど、人間を苦しめる。」
 猫の金色の目が深く光った。
「さあ、最初のタラレバを言ってごらん。」
 女は震えながら呟いた。
「……大学の時、あのゼミを選んでいれば……」
 すると目の前の景色が、破れた布を裏返すように一瞬で変わった。
 ずっと前に見た、あの教室。
 窓から入り込む青白い光。
 ゼミの教授が黒板の前に立ち、学生たちのざわめきがすべて音を取り戻した。
 女は、自分が選ばなかったゼミの席に座っている。
 そこからの日々は、驚くほど滑らかだった。
 ゼミで出会った友人との長いランチ、
 卒業旅行の笑顔、
 就職活動での“偶然”の内定。
 自分のタラレバが、次々に現実へと変わっていく。
 次に彼女は思った。
「もし、あの時あの人と別れなければ……」
 景色がまた揺れた。
 そこには、笑っている昔の恋人がいた。
 優しい声。
 手の温もり。
 女は懐かしさで目を潤ませた。
 だがその瞬間、猫が肩の上に乗って囁く。
「ほら、次のタラレバを言いたくなってきた。」
 その通りだった。
 女の脳裏には別の後悔が浮かぶ。
 次に戻り、また戻り、また戻る。
 仕事の選択。
 旅行先。
 住む部屋。
 告白を断ったタイミング。
 買い物で迷った服。
 どれもが、女の望む最高の形になった。
 満足は積もり、過不足のない日々は金色を放った。
 だがある日、女は“特大の選択”に直面した。
 それは人生の岐路だった。
 過去の些細な分岐とは違う、
 未来を大きく左右する重大な選択。
 仕事か、家庭か。
 遠距離恋愛か、別れか。
 安定か、挑戦か。
 どれもが正しく、どれもが怖かった。
 選択肢の前に立った女は——動けなかった。
 心臓が固くなり、呼吸が浅くなり、頭の中にタラレバの嵐が吹き荒れる。
「もし失敗したら……」
「もしあっちを選んだ方が幸せなら……」
「もし……もし……」
 足はすくみ、体は動かず、視界がかすむ。
 その時、金色の光が女の前に落ちた。
 ——ニャァ。
 タラレバの猫が戻ってきた。
「……ねえ、猫さん。私どうしたら……」
「どうして止まってしまった?」
「だって……選べないの。
 些細な後悔はやり直せた。
 でもこれは……どっちに転んでも絶対にまたタラレバを言ってしまう。
 私は、また後悔する。絶対に。」
 女は泣き崩れた。
 猫はそこへ歩き、そっと彼女の膝に座った。
「その通りだよ。」
 金色の目が優しく細められた。
「人はどんな選択をしてもタラレバを言う生き物だ。
 どれほど最善を尽くしても、必ず“別の可能性”を思い浮かべてしまう。」
「……じゃあ、どうすればいいの?」
「タラレバは、過去のためにあるんじゃない。
 未来を決めるためにあるんだ。」
 女は顔を上げた。
 猫は続けた。
「もしもあの時、ああしていれば……
 もしこうしていれば……
 それを考えるのは、生きている証拠だよ。」
「でも……私は戻れない。」
「戻らなくていい。
 君はもう、十分“戻りすぎた”。
 選んでは戻り、選んでは戻り……それを繰り返してきた。
 でもそれは幸せだっただろう?」
 女は静かに頷いた。
「じゃあ、もう戻らずに進めばいい。」
「……怖いよ。」
「怖いからこそ、正しいんだよ。」
 猫は女の頬へ小さく頭を寄せた


「どんな選択でも、後悔は生まれる。
 でもね、“選ばないこと”だけは後悔しか残らない。」
 女の呼吸が少しだけ軽くなった。
「タラレバはやめられない。
 でも、“タラレバの中に生きるか”は選べる。」
 猫は背を向け、影の中にゆっくり歩き出す。
「これでお別れだ。」
「……待って。もう戻れないの?」
「戻れない方が幸せなこともあるんだよ。」
 猫は最後に振り返り、こう言った。
「タラレバを、未来のために使いなさい。」
 金色の瞳が、一瞬だけ柔らかく揺れた。
 そして、猫は影とともに消えた。
 女は静かに立ち上がった。
 目の前には、大きな選択肢。
 以前なら震えるしかなかった岐路だ。
 だが今は違う。
 選べばいい。
 後悔は未来の自分が受け取ればいい。
 タラレバは過去ではなく、自分を前へ押すためにある。
 女はゆっくりと息を吸い、
 心の奥底から微笑んだ。
「……行こう。」
 選択はまだ怖い。
 完璧にはなれない。
 だけど——それでいい。
 タラレバをこぼす女は、
 タラレバをやめたわけではない。
 ただ、
 タラレバに“支配される”のをやめたのだ。
 その日から、女は前に向かって歩き始めた。
 後悔も迷いも、すべて抱きしめたまま。
 それでも、確かに生きるために。