「このマンション、なんか疲れるね」


 私がこのマンションに引っ越してきたのは、仕事を辞めて三か月目のことだった。
 前の会社は、胸に石を入れられたみたいに息苦しかった。
 辞めたあとも、寝ても起きても胸の奥に重たい痛みが残り、
 新しい部屋に移れば何かが変わると思っていた。
 だけど——現実は甘くなかった。
 引っ越し初日。
 段ボールまみれの部屋でカップ麺をすすりながら、私は思った。
(……疲れた。)
 まだ何もしていないのに疲れていた。
 息を吸うだけでため息が漏れる。
 何をしても「無理だ」の声が先に出る。
 そのとき、ポストに一枚の紙が入っていた。
 白い便箋。
 手書きの文字。
《こんにちは。
 このマンションに住む人へ。
 疲れていたら、よかったらここに愚痴を書いてください。
 匿名で OK です。
 私も、疲れています。》
 差出人の名前は書かれていなかった。
 ただ、最後に小さく――
《交換日記、しませんか》

 とだけあった。





 私は数秒その紙を見つめ、それから笑ってしまった。
「……怪しい。」
 でも、ほんの少しだけ胸が軽くなったのも事実だった。
 机の上にボールペンを取り、裏側に書いた。
《今日、カップ麺の味がしなかった。
 死ぬほど疲れている。
 でも、その紙を見て少し笑えました。ありがとう。》
 それを折りたたみ、ポストに戻した。
 これが、あの奇妙で温かい交換日記の始まりだった。


「愚痴を書きなさい。命令です」

 翌日、ポストを開くと、便箋が戻ってきていた。
《カップ麺の味がしないのは相当重症です。
 あなたはきっと真面目なんでしょう。
 私も、真面目な人間です。
 真面目な人間は壊れるのがうまいんですよ。》
 その文面に、私は思わずクスッとした。
《あと、“ありがとう”とか書かないこと。
 これは愚痴を書くための紙だから。
 褒めたり感謝したりしたら許しません。
 これは命令です。》
 文字だけのやり取りなのに、妙に距離が近かった。
 知らない人なのに、どこか気を許してしまう声色だった。
 私は返事を書いた。
《命令は嫌いです。
 でも、言う通りに愚痴を書きます。
 今日、スーパーで棚の前で商品を手に取ったら、
 後ろの客に舌打ちされました。
 なんで私の人生はこんなにタイミング悪いんですかね。》
 次の日、返事が返ってくる。
《舌打ちする人間はだいたい弱い人です。
 強い人は他人に音を立てません。
 だからあなたは悪くない。》
 その文を読んだだけで涙が滲んだ。
《あなたはタイミングが悪いんじゃない。
 心が疲れて、世界が濁って見えているだけです。
 それは、私も毎日そうです。》
 私は便箋を胸に当て、しばらく黙っていた。
 知らない相手なのに、何故こんなに心に響くのだろう。

「誰かに聞いてほしいだけなんだ」


 交換日記は、毎日の習慣になった。
 今日は仕事の面接に落ちた、とか。
 夜中に突然涙が出た、とか。
 朝起きた瞬間に「無理だ」と思った、とか。
 私は弱いところだけを書いた。
 すると相手も、弱さだけを返してくれた。
《今日は一歩も外に出られなかった。
 洗濯物が山になってる。
 でも、布団の中から出られなくて。
 あなたの便箋を読むと、少しだけ起きてみようと思える。》
《私も何度も失敗してる。
 君だけじゃない。》
 君、と呼ばれた瞬間、私は少しだけ赤くなった。
 この人はどんな顔をしているのだろう。
 どんな声で喋るのだろう。
 マンションのどこに住んでいるのだろう。
 考えると、心がざわざわした。
 会いたい。
 でも怖い。
 もし会ってがっかりされたら?
 もし向こうが嫌になってどこかへ行ってしまったら?
 知らないままの方が、傷つかない。
 そう思いながらも、手は便箋を書き続けていた。

「今日はあなたのために起きた」


 三か月が経った頃、私は少しずつ変わり始めていた。
 仕事が決まったわけではない。
 問題が解決したわけでもない。
 ただ、毎朝、ポストを開ける理由ができただけで、
 生きるのがほんの少しだけ楽になった。
 その日の便箋にはこう書かれていた。
《今日はあなたのために起きた。
 もしあなたから返事が来なかったら、
 私は布団から出なかった。》
 それを読んだ瞬間、胸の奥がぐっと掴まれた。
「……こんなの、反則だよ。」
 涙があふれた。
 誰かの役に立っている。
 誰かの理由になっている。
 それだけで、私は今日を生きようと思えた。

「名前を教えてもいいですか」


 交換日記は三百枚を超えていた。
 そろそろ、この関係に“名前”が欲しいと思った。
 私は便箋にこう書いた。
《名前、教えてもいいですか。
 あなたの名前を知らないまま、
 これ以上心の距離が縮まると……
 少し怖いです。》
 返事はすぐ来た。
《じゃあ先に言うよ。
 名前は——》
 そこで文が途切れていた。
 次の行に、震えた文字で続いていた。
《本当は、まだ言えない。ごめん。
 でも、嫌いだからじゃない。
 もう少しだけ、この距離にいさせてほしい。
 私は今やっと、誰かと話せるようになってきた。
 あなたに依存したくない。
 壊したくない。
 だから、もう少しだけ待って。》
 その気持ちは痛いほど分かった。
 私も同じだった。
《私も名前をまだ言いません。
 もう少しだけ、このままで。
 いつか、怖くなくなったら。》
 こう返事を書きながら、胸の奥が温かくなった。

6さ「来ない返事と、落ちた沈黙」


 だが——突然、便箋は来なくなった。
 一日、二日、三日。

 ポストは空っぽのまま。





 あの人の愚痴も、弱音も、安い自虐も、
 どれも消えてしまった。
 私は不安で押し潰されそうだった。
(嫌われた?
 私、何か書きすぎた?
 私の負担になった?
 もう疲れさせた?)
 悪い想像ばかりが浮かぶ。
 一週間目、私は泣きながら便箋を書いた。
《ごめんなさい。
 もし私が何かしていたら、ごめんなさい。
 何も返さなくていいから、
 あなたがまだ生きてるって、
 それだけ知りたい。》
 返事は来なかった。

「その人は、すぐ隣にいた」


 二週間目。
 私はとうとう耐えきれず、管理人さんに聞きに行った。
「すみません……
 このマンションに、一人で住んでいて、
 最近、外に出てない人っていませんか?」
 管理人さんは驚いた顔をした。
「……ああ、一人だけいるよ。
 三〇二号室の人。最近まったく姿を見ない。」
 私は息を飲んだ。
「三〇二……私の隣……」
 震える指で部屋番号を押し、扉をノックした。
「すみません。
 返事……ずっと待ってて……
 大丈夫ですか?」
 返事はなかった。
 私は、泣きそうになりながらもう一度ノックした。
「お願い。
 あなたが嫌いになったなら、それでいい。
 でも、生きてるって言って……」
 そのとき、扉がわずかに開いた。

 覗いたのは、疲れ切った目をした青年だった。





「……ごめん。」
「え……」
「返せなかった。
 毎日、返そうと思って便箋開くんだけど……
 手が震えて、書けなくて。
 外にも出られなくなって、
 ポストまで行くのも無理で……」
 その目から涙がこぼれた。
「名前、言えなくてごめん……
 でも、嫌いになったわけじゃない。
 むしろ……
 もう少しで、好きになりそうで怖かった。」
 その瞬間、私も泣いた。
「……私も。」
 扉の隙間で、二人の涙が落ちた。

「じゃあ、今日からは文字じゃなくて」


 青年は深く息を吸った。
「名前……
 言っていいですか。」
 私は頷いた。
「優斗です。」
「私は、咲。」
 名前を名乗った瞬間、
 長く続いた暗闇に、小さな光が差した気がした。
「じゃあ……今日からは、
 文字じゃなくても話せる?」
 優斗は、少し照れたように笑った。
「話したい。
 でも、まだたくさんは無理。
 少しずつ、でいい?」
「うん。」
 咲は涙の跡のまま笑った。
「少しずつでいいよ。」
9. 「交換日記は、ここで終わる」
 その日から、交換日記は途切れた。
 もう、ポストでやり取りする必要がないから。
 代わりに、玄関前で少し話したり、
 一緒に買い物へ行ったり、
 泣きたい日は泣いて、沈みたい日は沈んだ。
 二人とも弱いまま。
 ネガティブなまま。
 でも、誰かと弱さを共有できるようになっただけで、
 世界は驚くほど優しく見えた。
 ある日、咲は笑って言った。
「ねえ、優斗。
 また交換日記、書く?」
「もういらないよ。
 咲が直接言ってくれる方が好き。」
 優斗は照れて横を向いた。
「……でも、どうしても愚痴が書きたい日は、
 ポストに入れに行くよ。」
「うん。私も書くね。」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 交換日記は終わったけれど、
 二人の日々はそこでようやく始まったのだった。