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コタロウが家に来た日**
1. 引き取る前のこと
犬を飼うつもりは、まったくなかった。
当時の私は仕事に追われ、
帰ってもコンビニの袋を机に放り出し、
テレビをつけたまま眠る生活をしていた。
部屋は静かで、冷蔵庫の音がやけに大きかった。
ある金曜日、職場の近くにある保護犬施設に寄ったのは、
ただの“逃避”だった。
人に会いたくなくて、
でも誰かに会いたくて、
犬なら、ちょうどいい気がした。
受付の女性に案内され、
私はケージが並ぶ部屋に入った。
「子犬を見ますか?
それとも大人の子たち?」
「……大人の子で。」
子犬を世話できるほど、自信はなかった。
連れてこられたのは、小柄な柴犬だった。
名前はまだなかった。
施設の書類には「No.27」と書かれていた。
「この子、すこし慎重なタイプでして……
でも本当は甘えん坊なんですよ。」
職員はそう言ったが、
No.27はまったくこちらを見なかった。
ケージの奥に丸くなり、
ただ静かに、こちらと距離を取るように座っていた。
私はなんとなく、
「すぐ懐かれる犬と暮らす未来」を想像していたので、
拍子抜けした。
(……あー。こういうタイプか。)
他の犬は尻尾をちぎれそうに振っているのに、
No.27だけは興味ゼロ。
目すら合わせない。
(まぁ、俺も人見知りだしな……)
妙な親近感だけ湧いた。
2. はじめての目線
職員が言った。
「もしよかったら、
おやつを手からあげてみます?」
「あ、はい。」
私はビスケットを手に乗せ、そっと差し出した。
No.27はちらりとも見ない。
「大丈夫ですよ、時間かかる子なので。」
「そういうもんですか。」
「ええ。
……あ。」
「え?」
「今、一瞬だけ見ましたよ。
この子、気になってます。」
私はもう一度、犬の目線の高さまでしゃがんだ。
できるだけゆっくりと。
その瞬間だった。
カサッと、No.27が振り向いた。
黒い瞳が、こちらをまっすぐ見た。
その目は、怯えているわけでもなく、
怒っているわけでもなく。
ただ、
“おまえ、どんなヤツなん?”
と、冷静に値踏みするような目だった。
「あ……どうも。」
どうも、じゃないんだけど。
でも何か言わずにはいられなかった。
その目線に、少しだけ胸が温かくなった。
3. 名前の理由
「この子、どんな名前がいいと思います?」
職員さんが言った。
私はNo.27を見て言った。
「……コタロウ。」
「かわいいですね。」
「なんか……小さいけど、強そうで。」
職員さんが微笑んだ。
「性格ぴったりだと思いますよ。」
No.27、いや、コタロウは
「名前?ふーん」という顔で見ていた。
その“興味あるんだかないんだかよくわからない視線”が、
なぜか心に刺さった。
(……あぁ、こいつと暮らす未来ありかも。)
唐突に、そんな気がした。
4. 家に帰る道
「コタロウ、行くか。」
そう言ってキャリーに入れた瞬間、
キャリーの中でピクリと動いた。
道中、コタロウは一言も鳴かなかった。
静かで、存在が薄いくらいだった。
私はそわそわしていた。
(大丈夫かな……環境変わってストレスじゃないかな……
俺の部屋、そんなに広くないし……
冷蔵庫に昨日の弁当入ったままなんだけど……)
そんな不安をよそに、
キャリーの中のコタロウはただ丸くなっていた。
ときどき、わずかに尻尾が動く。
(あ、ちょっと安心してる……?)
ほんのその仕草が嬉しくて、
私はひとりでニヤけそうになった。
5. 初めての部屋
家に着き、キャリーを開ける。
「コタロウ、おいで」
コタロウはおそるおそる顔を出し、
一歩だけ出た。
二歩目。
三歩目。
部屋の真ん中でぴたっと止まり、
私を見た。
(おまえ、ちゃんと世話できるのか?)
そんな目に見えた。
「……まぁ、なんとかやるよ。」
コタロウが部屋をゆっくり歩き回り、
壁を嗅ぎ、
ソファを嗅ぎ、
カーペットを嗅ぎ。
そして急にピタッと座った。
その場所は、テレビの目の前。
「そこが落ち着くの?」
返事はない。
でも、鼻を鳴らして軽く座り直したその姿は、
“ここでいい”と言っているように見えた。
6. 初日の夜
その日の夜。
私はコタロウの寝床を整え、
湯船につかりながら考えていた。
(今日から、こいつと暮らすのか。
なんか……不思議だな。)
部屋の静けさが、いつもと違う。
空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
布団に入ると、
部屋の隅でコタロウも丸くなった。
電気を消すと、暗闇の中で小さな寝息がした。
その寝息は、
静かな家に初めて灯った“命の音”のようで、
私は胸がいっぱいになった。
「……おやすみ、コタロウ。」
返事はない。
でも、暗闇の中で尻尾が一回だけ揺れたのが見えた。
(あ、たぶん……返事したな、今。)
私は笑った。
この時はまだ、
翌日から“犬の声が全部聞こえる人生”になるとは
思ってもいなかった。
7. 能力が宿る前の、静かな時間
翌日になると、
あのおでこ事件が起きて、
私たちの生活は一変する。
でも——
その前の一夜の静けさは、
コタロウとの暮らしが始まった記念すべき夜であり、
本当に最後の“音のない夜”でもあった。
これから毎日、
うるさいほどの声が頭の中に響くなんて、
このときの私は知るよしもない。
ただひとつだけ確かなのは、
コタロウはこの家に来た瞬間から、
すでに“この家の主”になる気満々だった。
それは、おでこをぶつけた翌日にわかる。
けれど、この前日の静けさこそ、
コタロウと私の“はじまり”の大事な1ページだった。

