夜の一時を少し過ぎた頃だった。
机に伏せたまま寝落ちしかけていたスマホが、突然震えた。
知らない番号。
深夜の着信。
こんな時間に誰だろう、と思いながら画面をスワイプした。
「……もしもし?」
数秒の沈黙。
それから、低く落ち着いた声が聞こえた。
『やっと出たね。』
初対面のはずなのに、不思議と知った声だった。だが、思い出せない。
「どちら様ですか?」
『十年後の君だ。』
脳が一瞬、理解を拒んだ。
寝起きだからではない。
この声は確かに、自分の声を少しだけ低くした感じだった。
「ふざけてます?」
『ふざけてたら、こんな時間に電話なんかしないよ。』
声の調子から、苦笑いしているのが分かった。
「……十年後の、俺?」
『そう。驚かせて悪いけど、長くは話せない。』
その一言で、背筋が冷えた。
『ひとつだけ、どうしても伝えたいことがあって電話してる。』
「伝えたいこと?」
『うん。今日、君が“何もしないまま寝ようとしていたこと”、それだけは止めたかった。』
図星すぎて、言葉が出なかった。
今日の俺は、何もできなかった。
仕事で嫌なことがあり、帰り道でため息をつき、部屋に着くと布団の上に倒れ込んでスマホを眺め、現実逃避だけして一日を終えるつもりだった。
『やめた方がいい。今日だけは、絶対に。』
「……なんで?」
十年後の声が、少しだけ苦しそうに続けた。
『今日、君の人生が一度だけ“曲がる日”なんだよ。気づかないくらい、小さい分岐点だけど……ここで動くか、動かないかでずいぶん変わる。』
「何をすればいい?」
『一つだけ行動しろ。どんな小さなことでいい。だけど、“ずっとやらなきゃと思ってやってないこと”に手をつけろ。』
「それって……」
『君なら分かってるはずだよ。一番、やるのが怖くて、ずっと先延ばしにしてるやつ。』
胸の奥に、重い石が落ちた。
ずっと放置していたメールのことだ。
書きかけのまま、半年放置していた返信。
送ったら何かが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
『それを“今日だけは”動かせ。』
「……理由は」
『理由は言えない。言ったら、君は選択しないから。“自分で判断した”ことに意味があるんだよ。』
また数秒の沈黙。
『ただ、一つだけ約束する。
今日動けば、未来の君は後悔しない。
今日動かなければ、十年後の俺は……まだ電話をかけ続けることになる。』
その言葉の意味が、全身に重く響いた。
「最後に、ひとつだけ教えてください。」
『何?』
「あなたは──俺は、幸せですか?」
受話器の向こうで、少しだけ笑う気配がした。
『……それは、今日の君にかかってるよ。』
プツン、と通話が切れた。
深夜の部屋は、さっきよりも静かだった。
外の風の音が、少しだけ強く聞こえる。
スマホを握った手が汗ばんでいた。
画面に映る自分の顔が、不安と期待で揺れている。
書きかけのメールを、開く。
ずっと怖くて触れなかった文面が、そこにあった。
カーソルを動かし、
震える指で、一文字だけ追加した。
——元気ですか。
たったそれだけの一歩。
でも、送信ボタンを押すのは、十年分の重さがあった。
震える呼吸。
でも、逃げない。
私は、ゆっくりと“送信”のボタンに触れた。
送信が終わった瞬間、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
まるで、未来の誰かがほっとため息をついたように。
その後返事が来るかどうかは、まだ分からない。
今日の選択が正解だったかも分からない。
だけど、十年後の自分が言った通りだ。
“何もしないまま寝る”という生き方だけは、今日で終わった。
その夜、私は初めて静かに眠れた。
翌朝、スマホを開くと一通のメールが届いていた。
《久しぶり。あなたから連絡が来る気がしてた。話せるよ。今日でも、いつでも。》
胸の奥が暖かくなる。
あの夜の電話は本物だったのか、夢だったのか。
それはもうどうでもよかった。
——十年後の自分に、胸を張れる一日がようやく始まったのだから。