嘘をついていい日は、一年にたった一度だけだった。
正式名称は「特例虚偽許容日」。
役所の通知にはそう書かれているくせに、人々はみな「嘘の日」と呼んだ。
その日だけ、人は一人につき一度だけ、どんな嘘でもペナルティなくつける。
契約の場でも、恋人同士でも、家族に対してでも。
翌日その嘘がばれても、法的にも社会的にも責任は問われない。
嘘を使った、という記録だけが、マイナンバーの横にひっそりと残る。
だからこそ、その一回が重かった。
誰もが、人生のどこでその一度を切るか、ひそかに考え続けていた。
——そして、まだ一度も使っていない人間が、ほんの一握りだけ、残っていた。
例えば、私のように。
今年の嘘の日は、例年より少しだけ早く感じた。
冬と春の境目のような曖昧な空気。
通勤電車の中では、すでにその話題で持ちきりだ。
「今年こそあいつに告白して適当にごまかそうかな」
「上司に『転職します』って言ってみたいわ」
「子どもに『ゲーム買ったよ』って嘘ついたら泣くかな」
笑い声。軽口。
だけど、どこか本気も混ざっている。
私は窓に映る自分の顔をぼんやり眺めながら、ポケットの中のスマホを握りしめた。
画面には、未送信のメッセージが一つ。
宛先は、三年前に別れた女の名前。
《今日だけでいいから、会えない?》
打ったきり、送れないままの日付だけが更新され続けている。
職場では、毎年恒例の確認作業があった。
人事部から送られてくるメールには、
「今年の嘘使用予定の有無を申請してください」とある。
社内では、重大な商談での利用を防ぐため、嘘の日には原則として重要契約を行わない。
それでも、突然個人的な嘘をぶっ放す社員はいるので、事前申請という形だけのルールが存在していた。
私は「使用予定なし」にチェックを入れた。
本当は——どうするか決められていなかった。
ただ、「使う」と宣言してしまった瞬間、その嘘を現実にしなければならない気がして、指が動かなかった。
「また使わないの? もったいなくない?」
隣の席の後輩、三浦がディスプレイ越しに覗き込んだ。
「おまえ、去年使っただろ。なんか偉そうに言ってなかったか?」
「言いましたよ。彼女に、『もう気持ちないから』って。」
「……おまえ、本当はまだ好きなんだよな。」
三浦は、照れたように笑って肩をすくめた。
「だからいいんじゃないですか。嘘の日くらい、強がらせてくださいよ。」
その言葉に、胸の奥が、きゅっと縮んだ。
私があいつと別れた日も、たしか嘘の日の二週間後だった。
もし、あの時嘘を使っていたら。
もし、「大丈夫だよ」と笑っていられたら。
タラレバは、たしかに私の中にも住んでいた。
その日の夕方、一本の電話がかかってきた。
表示された名前を見て、心臓が跳ねる。
——母さん。
「もしもし?」
『あんた、今年も帰ってこない気?』
ひと言目がそれだった。
「嘘の日に合わせて帰省するの、そんな文化ないだろ。」
『あるわよ、うちには。お父さんが生きてた頃から、毎年嘘つき合って笑ってたじゃない。』
そういえば、そうだった。
父は、嘘の日になると必ず母にくだらない嘘をつき、
母はそれをすぐに見破って、二人で笑っていた。
『ねえ、あんたさ。』
母の声が少しだけ低くなった。
『あんた、まだ一度も嘘、使ってないんでしょ?』
「……うん。」
『だったらさ、今年使いなさいよ。』
「何に?」
『自分で考えなさい。
あんたの人生のために使いなさい。
誰かを傷つけるんじゃなくて、自分を楽にするためにね。』
電話の向こうで、母がため息をついた。
『お父さん、最後まで使わなかったのよ。
“俺は正直に生きるから”って。かっこつけて。
でもね、あの人、本当は一度くらい嘘ついて楽になりたかったと思うの。』
「……例えば?」
『“大丈夫だ”って嘘。』
その言葉は、妙に胸に残った。
嘘の日の朝、空はよく晴れていた。
ニュース番組では、例年の統計が紹介されていた。
「昨年度の嘘使用率は成人の約九十四パーセントでした。
最も多い用途は“恋愛絡みの嘘”と“仕事の辞意に関する嘘”です。」
アナウンサーが笑いながら言う。
「恋人に“もう冷めた”と嘘をついて別れるケース、
会社に“転職先が決まっている”と嘘をついて有利に退職するケースなどですね。」
私はテレビを消した。
今日は有給を取った。
理由欄には「私用」とだけ書いた。
ポケットにはスマホ。
喉の奥には、あの未送信メッセージの感触。
——今日、私は嘘を一つだけつく。
誰に、何を。
まだはっきりとは決めていなかった。
ただ、逃げ続けるのだけはやめようと思った。
街に出ると、少しだけ浮ついた空気が漂っていた。
コンビニでは「嘘の日限定おにぎり」と書かれたポップが並び、
カフェでは「嘘つきカフェラテ」が期間限定で販売されている。
みんな、この日を面白がっていた。
でもその裏には、それぞれの胸の奥で静かに震えている本音があった。
十一時を回ったころ、私はいつか二人でよく行った公園に来ていた。
春先のその場所は、まだ人が少ない。
ベンチに座り、しばらく空を眺める。
スマホを取り出し、未送信のメッセージを開いた。
《今日だけでいいから、会えない?》
指が震える。
嘘の日。
このメッセージ自体は嘘ではない。
会いたいのは本当だった。
では、私が使うべき嘘は何なのか。
あのとき言えなかった言葉か。
あのとき本当は言いたかった本音か。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
ベンチの向こうで、小さな女の子が母親にしがみついて泣いていた。
「ママ、ほんとに? 今日はお仕事お休みなの?」
「本当よ。今日はずっと一緒。」
ああ、と私は思った。
——これも、もしかしたら嘘なのかもしれない。
嘘の日の一日。
母親が「本当よ」と言うその一言が、本当かどうかを誰も確かめられない。
世界はいつもより少しだけ、不確かだった。
昼過ぎになって、私はようやく送信ボタンを押した。
《今日だけでいいから、会えない?》
返事は、思ったより早く来た。
《驚いた。
今日、そのメッセージが来る気がなんとなくしてた。》
胸が跳ねる。
《いいよ。夕方、あの喫茶店で。》
あの喫茶店。
別れ話をした、あの場所。
《いいの?》と打とうとして、やめた。
会える。
それだけ分かれば十分だった。
約束の時間より少し早く着いてしまって、喫茶店の前でしばらく立ち尽くした。
窓の向こうで、見慣れた横顔がコーヒーを飲んでいるのが見えた。
髪型が少し変わっている。
笑い皺が、以前よりわずかに増えている。
扉を開けると、懐かしいベルの音が迎えてくれた。
「久しぶり。」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔は、三年前とほとんど変わらない。
「急に呼び出して、ごめん。」
「嘘の日くらい、許すよ。」
彼女は軽口を叩きつつ、どこか探るような目をしていた。
「嘘、使いに来たの?」
私は、コーヒーを一口飲んでから答えた。
「まだ。」
「まだ?」
「まだ決めてない。
ここで使うかどうかも。」
彼女は少し驚いたように目を瞬いた。
「私、もう使っちゃった。」
「え?」
「さっき、上司に。“大丈夫です、なんとかやれます”って。」
そう言って笑った表情には、少し疲れが滲んでいた。
「ほんとは、全然大丈夫じゃないんだけどね。」
「……それ、嘘に使うのもったいなくないか?」
「そうかな。私には、けっこう大事な嘘だよ。」
彼女はストローを弄びながら続けた。
「私ね、あんたと別れてから、何回も考えたの。
“もしあの時、もっと素直になってれば”とか
“もしあの時、仕事よりあんたを優先してれば”とか。」
胸が締めつけられる。
タラレバは、自分だけのものじゃなかった。
「でも、どれももう過ぎちゃったでしょう。
だからさ、今日の嘘は、これにしたの。」
「大丈夫です」って。
それは彼女なりの戦い方なのだろう。
限界ギリギリでも、前に進むための。
「で、あんたは?」
彼女がコップ越しに私を見る。
嘘を一つだけ許される日。
ここで、何を言うべきか。
——“まだ好きだ”と嘘をついて、彼女を縛るか。
——“もう平気だ”と嘘をついて、自分を解放するか。
どちらも、嘘になり得た。
でも、本当はもう分かっていた。
私は彼女を、あの頃のようには愛していない。
でも完全に忘れたわけでもない。
心のどこかで、優しいまま残っている。
それを、どう嘘に変えればいいのか。
「俺さ。」
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「一回くらい、“後悔しない選択”をしてみたいんだ。」
「そんなの、ある?」
「少なくとも、“嘘を悔やみ続ける選択”よりはマシなやつ。」
彼女は少し考え、それから笑った。
「じゃあ、正直に言えば?」
「正直に言っていいのかな。嘘の日に。」
「嘘の日だからこそ、正直でもいいんじゃない?」
その言葉に、肩の力が抜けた。
私は深呼吸をして、言った。
「……会えて、よかった。」
それは、奇妙なほどあっけない言葉だった。
でも、それが本音だった。
もう一度やり直したいわけでもない。
過去をなかったことにしたいわけでもない。
ただ、今日、この席で彼女と向かい合えていることが、素直にうれしかった。
彼女はしばらく黙って、それから、小さく頷いた。
「私も。」
その瞬間、私は気づいた。
——今、私は嘘をつかなかった。
嘘を一つだけ許される日に、嘘を選ばなかった。
なんだか、少しだけ悔しいような、誇らしいような気持ちになった。
店を出ると、夕焼けが街を染めていた。
「このあと、どうするの?」
彼女が尋ねた。
「母さんに、電話しようかな。」
「そう。」
「嘘、使わなかったって報告する。」
彼女は笑った。
「怒られない?」
「怒られるかもな。
“もったいない”って。」
「でも、あんたらしいよ。」
そう言って、彼女は手を振った。
別れ際、「じゃあね」と言いかけて、
彼女は少しだけ言い直した。
「元気でね。」
その言葉には、嘘も未練も混じっていないように聞こえた。
私も同じ言葉を返した。
「元気で。」
家に帰ると、玄関の電気をつける前に母へ電話をかけた。
『どうだった?』
「使わなかった。」
『はぁ?』
「嘘、つかなかった。」
母は大きく息を吐いた。
『バカね、あんた。せっかくの一回を。』
「でも、なんかそれで良かった気もする。」
しばらく沈黙があってから、母がぽつりと言った。
『あんた、お父さんに似てきたわね。』
「……それ、褒めてる?」
『半分だけね。』
電話の向こうから、くぐもった笑い声が聞こえた。
『でもまあ、いいわ。
嘘をつかないって決めたなら、それはそれであんたの選択よ。
そのかわり——』
「そのかわり?」
『普段から、“本音をごまかすための小さな嘘”は減らしなさい。
嘘の日を使わなかったんだから、その分、正直に生きなさい。』
「……努力するよ。」
『努力しなさい。』
電話を切ると、部屋の中がやけに静かだった。
窓の外では、嘘の日の夜が始まろうとしている。
どこかの家では、誰かが「大丈夫」と嘘をつき、
どこかの恋人たちは「もう好きじゃない」と嘘をついているのだろう。
私は、ソファに座り込んだ。
天井を見上げる。
——嘘を一つだけ許される日。
私は、その権利を使わなかった。
でも、妙なことに、後悔はほとんどなかった。
タラレバはきっと、これからも浮かぶだろう。
「あの時、あそこで嘘をついていたら」とか。
「別の言葉を選んでいたら」とか。
それでも、いい。
人はどんな選択をしてもタラレバを言う。
だったら、せめて——自分で選んだ言葉くらい、信じて生きてみたい。
私は目を閉じ、小さく笑った。
嘘のない、ささやかな本音だけを抱えて。
