序章

 ことの始まりは、まったく予想していないタイミングだった。
 その日、私は三か月前に譲り受けた柴犬・コタロウ(♂・6歳)を連れて、近所の河川敷を散歩していた。コタロウは散歩中、気が向くと急に止まり、次の瞬間はダッシュと、情緒が忙しい犬である。
「おーい、急に止まるなよ……」
 と注意しようとした瞬間だ。
 コタロウがピタッと止まった。
 私も止まろうとして、少し遅れた。
 ドンッ。
 軽い衝撃。
 犬の後頭部と私の額が見事にぶつかった。
「いってぇ……」
 と同時に。
――うわ、今日の飼い主ニオイ薄いな。洗濯変えた?なんか違うんだよな……。
 声が聞こえた。
 正確に言うと、耳ではなく脳に直接届いた。
「……は?」
――あ、なんか今日の散歩コース長い予感する。いや帰りたいんだけど。帰ってあのオヤツ食べたいんだけど。
「え、え?」
 コタロウは普通に前を見ている。
 口も動かしていない。
 けれど確かに、私の頭の奥で犬の声が響いている。
 私はしゃがみ込み、コタロウの顔を覗き込んだ。
「……今、喋った?」
――喋ってねぇよ。お前が勝手に聞いてんだろ?おでこ痛ぇんだよ。
「やっぱり喋ってる!!」
――喋ってねぇっつってんだろ、この人間!
 私の人生において、最初の「犬にツッコまれる」瞬間だった。



第1章:犬の本音がうるさい日々
 その日から、私は奇妙な能力に目覚めた。
 条件は一つ。
「犬のおでこに自分のおでこをくっつける」
 それだけで、犬の“その瞬間の考え”が全部聞こえる。
 翌朝、試しに軽くコタロウの額に触れてみた。
――よっしゃ、散歩だ散歩だ散歩だ!鳥!鳥いる!今日もいる!絶対いる!オレの勝ち!
「元気だな……」
――おい、今日はあの川沿い行くなよ。あそこ猫多いしオレちょっと怖ぇんだよ。
「おまえ猫怖かったの?」
――うっせ、違ぇし。
 完全にツンデレである。
●散歩中の本音がうるさすぎる
 散歩のたびに、頭の中にコタロウの実況が飛び込んでくる。
――あの電柱今日臭う。誰だ?新入りか?名前教えろコラ。
――お、さっきの黒柴。アイツ今日テンション高すぎ。絶対昨日肉食ったな。
 犬社会、けっこう生臭い。
●ごはん時はさらにうるさい
「ほら、ごはん。」
 皿を置いた瞬間、脳に衝撃が走る。
――うおおおお!!今日これ!?マジ!?昨日より肉増えてね!?やった!!!ウヒョーー!!
「うるさい!」
――喜び抑えられねぇ!!!!
 ごはんへのテンションが振り切れている。
●私の秘密がバレている問題
 ある日、私が冷蔵庫を開けると、背後から視線を感じた。
「……何?」
――また深夜にプリン食う気だ。デブるぞ。
「おまえほんと余計なこと言うな!!」
――おでこつけた時だけ聞こえると思ったら大間違いだぞ。表情で全部わかるんだからな。
「犬ってそんな鋭いの?」
――お前は特にバレやすい。分かりやすく顔に出るタイプ。
「くっ……!」
 犬にまで図星を刺される人生になるとは思っていなかった。


第2章:犬の友達の考えまで聞こえるように
 能力は日々、勝手に進化した。
 最初はコタロウ限定だったが、ある日公園で衝撃の事実に気づく。
 他の犬の声まで聞こえるようになったのだ。
●公園の犬たちの頭の中がカオス
 ボーダーコリー:
――新しいボール持ってるやついる。奪う。絶対奪う。あれはオレの宿命。
 チワワ:
――こっち来るなこっち来るなこっち来るな!(震え)
 ゴールデン:
――遊ぶか?遊ぶか?遊ぶか?遊ぶか?遊ぶか?(∞)
 柴犬(よその):
――おいコタロウ、今日お前尻洗っただろ。湿ってるぞ。
「なんで分かるんだよ!」
――犬を舐めんなよ。
●おでこを合わせてないのに聞こえる
 ある日、私はその場にいるだけで犬たちの声が流れ込むことに気づいた。
「これ、おでこ関係ないやつじゃん……」
――おいお前、オレたちの声聞こえてんの知ってんぞ?
――どこの犬のスパイだ?
――ちょっと相談していい?
――オヤツ持ってるなら正直に言え。
 犬社会、距離感が近い。



●犬の政治が存在した
 ある日、柴犬グループの中心犬が私の前にやってきた。
――聞いたぞ。お前、人間の中では珍しく“犬語理解者”らしいな。
「犬語理解者というのは違う気が……」
――コタロウの仲間なら、オレたちの議題に参加してもらう。
「議題!?犬に議題って何!」
――この公園の“ボールの所有権”問題だ。
「……治安悪いな、犬の世界。」
――この公園の“ボールの所有権”問題だ。
「……治安悪いな、犬の世界。」
 柴犬リーダーの名前は、あとから聞いたところ「ハチ」だった。
 そのネーミングセンスの雑さは置いておいて、彼は完全に“組長”の貫禄だった。
――あの白いポメラニアンがな、毎日新しいボールを持ってくるんだが、
 あいつ自分ではあまり遊ばず、他のやつが触ろうとすると全力で怒る。
 これはもはやボールの有効活用ではない。公共性の侵害だ。
「犬で“公共性の侵害”って言葉使うな。」
――そこで我々は決議した。“ボールは投げられた瞬間、全犬のもの”とする。
「議会でも開いたの?」
――昨夜、電柱の前で三時間会議した。
 犬社会、予想以上に民主主義である。
――で、人間。お前には“投げ係”になってほしい。
「え、俺が?」
――お前が投げたボールなら、あのポメも文句言えない。
 “人間が投げたものは神からの恵み”という古くからの掟がある。
「そんな掟、誰が決めたんだよ。」
――さっきオレが。
「今かよ。」
 横でコタロウが、ため息をついた。
――ごめんな、人間。うちの界隈、だいたいこんなノリ。
「おまえの交友関係、想像より濃かったわ。」
***
 その日以来、私はなぜか“犬たちの専属ボール投げ要員”として公園で働くことになった。もちろん無給である。
「ほら、いくぞー!」
 ボールを投げるたびに、犬たちの頭の中が一斉に叫ぶ。
――うおおおお!!
――高速で行った!今度こそオレ!オレが先!!
――草の匂い最高!!ボール忘れた!!
――あっ足もつれた!!見ないで!とくにゴールデンのテンションがやばい。
――ボールボールボールボールボールボールボールボ(以下無限)
「おまえ、語彙ボールしかないのか。」
――あるだけマシだろ、コタロウなんか“帰りたい”と“帰りたくない”しかないぞ。
――うっせ。
 私は笑いながらボールを投げ続けた。
 その姿を見て、近所の子どもが母親に聞いている。
「ねぇママ、あのお兄さん、なんで一人で笑いながらボール投げてるの?」
「……目を合わしちゃダメよ。」
 誤解が広がっていく速度は、犬の足より速かった。



***
 能力には、さらに副作用があった。
 どうやら私は、“犬と視線を合わせるだけで”おおまかな感情が分かるようになってしまったらしい。
 ある日、動物病院の待合室でのこと。
 私は予防接種のためにコタロウを連れていき、椅子に座っていた。
 そこには他の犬たちもいた。
 ダックス:
――あの扉の向こう絶対やべぇ。帰りたい。帰ろ?ねぇ?なんで帰らないの?
 パグ:
――さっきまで寝てた。起きたらここ。知らない人いっぱい。え、ここどこ。誰。オレ誰。
 プードル:
――あの看護師さん、前回オヤツくれた。今回は?くれる?ねぇくれる?(尻だけ振動)
「病院の待合室、思ったよりうるさいな……」
 コタロウは横でプルプル震えていた。
――注射やだ注射やだ注射やだ注射やだ(∞)
「おまえもかよ。」
――だってあれ痛いじゃん。なんで人間は“ちょっとチクっとしますね〜”とか言うの?
 “おい、これからお前を刺すぞ”って正直に言えよ。
「いやそれはそれで怖いだろ。」
――正直に言えよ。(真顔)!!
 カオスである。
犬に医療コミュニケーションのあり方を説教される人生になるとは思わなかった。
***
 さらに厄介なことに、噂は犬の世界で瞬く間に広まったらしい。
 ある朝、公園に行くと、見知らぬ犬が十匹以上集まっていた。
 全員がこちらを見ている。
「……なにこれ、会議?」
――あれが“人間通訳”だ。
――マジで?都市伝説じゃなかったの?
――相談していい?隣の犬の尻ばっかり嗅いじゃう癖、直したいんだよね。
――オレ、飼い主が出かけると泣いちゃうんだけどメンタル弱すぎ?
――うちの人間、最近元気ない。どうやって元気にすればいいか教えてほしい。
 ……いや待て。
 犬たちの悩み、思ったよりガチだな。
「えーっと……順番に並ぼっか。」
 列ができた。
 私は、ひとりずつ(一本ずつ?)“犬の悩み相談”に乗ることになった。
 コタロウが横で呆れている。
――なにそれ、人間なのに犬セラピスト?
「おまえのせいでこうなってんだぞ?」
――まぁ……オレの人間、人気者なの誇らしいけどな。
「……今の素直なやつ、もう一回言ってくれない?」
――やだ。恥ずかしい。
 ツンデレは今日もブレない。
***
 そんなある日、一匹の老犬が私の前にヨロヨロと歩いてきた。
 白くなった鼻先。
 少し濁った目。
 かなり年配の雑種だ。
――人間通訳さん。
「はい。」
――相談がある。
「なんでしょう。」
――オレが死んだあと、うちの人間がひとりになっちまう。
 あいつ、泣き虫なんだ。
 ちゃんと飯食うか心配でな。
 私は言葉を失った。
 頭の中に流れ込む声は、冗談もなく真剣で。
――死ぬのは別に怖くねぇ。
 でもよ、泣きすぎて身体壊されたら面倒だろ?
「……それは……うん。面倒だな。」
―-やめろォォォ!近所に聞こえるだろ!!
 犬のプライドは今日も元気だ。
***
 しかし、そんな日常にも、「じわじわとした変化」が混ざり始める。
 ある日、公園へ向かう途中、コタロウが足を止めた。
 ほんの小さな段差で、前足がカクッと折れる。
「おっと、大丈夫か。」
――あー、ちょっと踏み外しただけ。大丈夫大丈夫。
 ……大丈夫。
 最後の「大丈夫」が、少しだけ薄かった。
 その日から、わずかに散歩のスピードが落ちた。
 階段の上り下りで息が上がるようになった。
 でもコタロウは、どれだけしんどくても口では(頭では?)絶対にこう言う。
――余裕。
 まだまだ若い。
 オレ今全盛期。
「いやどう見てもおっさんだよ。」
――うるせぇ。
 おっさんは、意地っ張りだった。
***
 老いは、静かに、しかし確実に進んでいった。
 ある夜、私がソファで寝転がっていると、コタロウがよろよろとやってきて、いつもより慎重な動きでソファに飛び乗った。
 ……いや、正確には「登ってきた」に近い。
「おー、がんばったな。」
 私が頭を撫でると、コタロウは私の胸の辺りに丸くなった。
 しばらくして、そっと額を押し付けてくる。
 おでこが触れる。
――……なぁ、人間。
「ん?」
――オレさ、前から聞こうと思ってたんだけど。
「うん。」
――オレがいなくなったら、お前、次の犬飼う?
 思いもよらない質問だった。
「……どうかな。」
――正直に言えよ。
 私は天井を見つめた。
「……もし、コタロウが“もういいよ”って言ってくれたら、考えるかも。」
――はぁ。
 やっぱり人間、余計なこと考えすぎだな。
「なんだよ。」
――オレたちさ、自分の寿命短いの知ってるぞ。
「え。」
――だってさ、子犬の頃から見てるだろ。
 先代犬がいなくなって、次の犬が来る家。
 公園の友達が急にいなくなって、その後から別の若いのが来る家。
 コタロウの声が、少しだけ穏やかになった。
――だからさ、“次”が来るの、全然イヤじゃねぇぞ。
 むしろ安心する。
「安心?」
――お前みたいなめんどくさい人間に付き合ってくれるやつ、
 オレ以外にもいた方がいいだろ。
「おい。」
――いや、褒めてんだよ。
 ……お前と暮らすの、結構楽しいからさ。
 胸の奥がじん、と熱くなった。
「……コタロウ。」
――だから、“次のやつ”が来てもさ、罪悪感とか持たなくていい。
 オレは、それまでの間にめいっぱいオヤツもらっとくから。
「最後そっち?」
――大事なとこだろ。
 私は笑いながら、目頭を拭いた。



***
 コタロウの体調がいよいよ悪くなったのは、翌年の冬だった。
 ごはんの量が減り、
 散歩も五分で引き返すようになり、
 何より、あのうるさい頭の声が、日に日に小さくなっていった。
 動物病院の先生は、静かに言った。
「年齢と持病を考えると……
帰り道、コタロウはキャリーバッグの中で静かに丸くなっていた。
 家に着き、床にベッドを置くと、コタロウはゆっくりとそこに横たわった。
 目はまだしっかりしている。
「……なぁ、コタロウ。」
――ん。
「怖いか。」
――正直に言っていい?
「いいよ。」
――ちょっと怖い。
 でも、お前、いつもそばにいるだろ。
「いるよ。」
――じゃあ、まぁ……なんとかなるだろ。
 その「なんとかなるだろ」が、これまでの人生で聞いたどんな言葉より心強かった。
***
 その数日後の夜だった。
 私はずっとコタロウのそばにいた。
 呼吸は少し荒く、身体は痩せて軽くなっていた。
 ふと、コタロウが首を持ち上げる。
 ゆっくりと、私の方へ顔を伸ばしてきた。
「……おでこ?」
 私はそっと、自分の額をコタロウの額に当てた。
 微かな体温。
 いつもより弱い鼓動。
 そして、小さな声。
――なぁ、人間。
「うん。」
――最後にさ、言っときてぇことがある。
「なに。」
――オレさ。
 一瞬、間が空いた。
――結構、幸せだったぞ。
 涙が、一気にあふれた。
「……そっか。」
――散歩も楽しかったし。
 オヤツもまぁまぁだったし。
 お前はうるさいけど優しかったし。
「“まぁまぁ”とか言うなよ。」
――あと、お前、もっと自分のこと褒めろ。
 オレがいなくなったあと、
 “あのときもっとこうしてれば”とか、そういうの言うな。
「言いそうだわ。」
――だろ?
 だから先に言っとく。
 お前、ちゃんとやってたぞ。
 呼吸が少し、さらに浅くなる。
――……オレ。
 いい犬だった?
 喉の奥が痛かった。
「最高の犬だったよ。」
――ふーん。
 じゃあ、
 オレの方からも、言っとくわ。
「……なに。」
――お前も、
 まぁまぁ、いい人間だった。
「最後まで評価が微妙なんだよ。」
――ランクで言うと、
 “オヤツ多めの中堅クラス”だな。
「それ褒めてる?」
――褒めてる。
 ……ありがと。
 そう聞こえた気がした瞬間、
 コタロウの呼吸が、ふっと静かになった。
 額の下から、体温が少しずつ消えていく。
 声は、もう聞こえなかった。
***
 コタロウがいなくなったあと、世界は一気に静かになった。
 公園に行っても、犬たちの声が聞こえない。
 ボールを投げても、ただのボールにしか見えない。
 犬のおでこに額をくっつけても、何も起こらなかった。
「……能力、なくなったか。」
 ぽつりと呟くと、風が額を撫でていった。
 なんだか、コタロウに軽く小突かれたような気がして、
 私は変な顔のまま笑った。
***
 それからしばらく、私は公園から足が遠のいていた。
 だけどある日、老犬が言っていたことを思い出した。
――“次”が来るの、全然イヤじゃねぇぞ。
 あの日のコタロウの声と、どこか重なって聞こえる。
「……なぁ、コタロウ。」
 誰もいない部屋で、私は話しかけた。
「オレ、もう一匹、犬と暮らしてみてもいいかな。」
 もちろん、返事はない。
 けれど、窓の外から風が吹き込んできて、
 額にふわっと当たった。
 その瞬間、ほんの一瞬だけ。
――オヤツは多めにな。
 そんな声が、聞こえた気がした。
「……おまえ、そこだけはブレないな。」
 私は笑って、涙を拭いた。



***
 数か月後。
 私は保護犬施設のケージの前でしゃがみ込んでいた。
 中には、ガサガサした毛並みの中型犬が座っている。
 年齢不詳。
 目つきだけやたらと鋭い。
 スタッフさんが言う。
「この子、人見知り激しくて……なかなか打ち解けないんですよね。」
「へぇ……」
 犬と目が合う。
 何も聞こえない。
 でも、その沈黙が、少し懐かしく感じた。
「……なぁ。」
 私はケージ越しに、そっと問いかけた。
「うち、来るか?」
 犬はしばらく黙っていたが、
 やがて、ほんの少しだけ尻尾を動かした。
 その仕草に、コタロウの面影を少しだけ見てしまって、
 私は苦笑した。
「よし。じゃあ、よろしくな。」
 名前は、まだ決めていない。
 おでこをくっつけても、きっと何も聞こえないだろう。
 それでもいい。
 声が聞こえなくても、
 犬はちゃんと全身で喋ってくることを、
 コタロウがさんざん教えてくれたから。
 帰り道、空に向かって、心の中でだけ話しかける。
(見てろよ、コタロウ。
 オレ、今度は“まぁまぁ”じゃなくて、
 “なかなかいい人間”ぐらいにはなるから。)
 風が吹いて、額に当たる。
 今度の風は、ちょっとだけ、誇らしそうだった。