最初の「ほぼ自分」を見つけたのは、会社を早退した雨の夕方だった。
体調不良という理由で上司に頭を下げ、ビルを出た瞬間、湿ったビル風がネクタイを揺らした。濡れたアスファルトに、信号待ちの人影がぼんやりと映っている。その中に、見慣れた横顔があった。
自分だ、と思った。
黒いコートの襟を立て、スマホを片手に、少し猫背で立っている男。前髪の分け目、顎の角度、気づけば噛んでしまう下唇。全部、俺が毎日鏡で見ている顔だった。
信号が青に変わり、人の流れが動き出す。そいつも歩き出す。反射的に、俺も後を追っていた。
ビルとビルの隙間を縫うようにして進み、そいつは、とあるガラス張りの高層ビルへと入っていった。エントランスに掲げられた社名は、俺が就活のとき一度落ちた、大手コンサル会社の名前だった。
受付前で立ち止まり、社員証をかざしてゲートを通る「俺」。笑っている。スーツは身体によく馴染み、背筋も伸びていた。受付の女性と軽く言葉を交わし、そのままエレベーターに消えていく。
成功した俺だ、とすぐにわかった。
胸の奥が、湿った痛みでズキンと鳴る。俺はガラスに映った自分の姿を見た。くたびれたスーツ。締め直されていないネクタイ。昼から続く微熱のような、曖昧な倦怠。
——あいつが、本当の「俺」だったんじゃないか。
そう思った瞬間、背筋が冷たくなり、そこから逃げるようにビルを離れた。
その日を境に、「ほぼ自分」が視界に入り込むようになった。
二人目は、休日のショッピングモールで見かけた。
子どもの泣き声が響くフードコートで、トレーを二つ抱え、慌てた様子で席へ戻る男。肩幅、歩き方、伏し目がちな目つき。やはり見慣れた輪郭だった。
テーブルには、小さな女の子が一人。三つ編みがほどけ、口の端にケチャップをつけて泣きそうな顔をしている。その隣には、妻らしき女性。疲れた表情ではあるが、時折見せる笑みは柔らかかった。
「ほぼ自分」は、トレーを置くと、子どもの頭を軽く撫で、妻に何か一言謝るように話しかけた。妻は苦笑いを返し、子どもの口元をハンカチで拭う。三人の間に流れる空気は、喧騒の中でも不思議とあたたかかった。
家族を持った俺、なのだろう。
視線が合ってしまった気がして、とっさに目をそらす。近くの自販機の前で、缶コーヒーを買うふりをして時間を稼いだ。目の端で、彼らの笑い声が揺れている。
——なんで、あいつはちゃんとやれているんだ。
俺が選ばなかった日々。逃げた責任、潰した可能性。何気ない光景が、胸の奥の古傷を爪でひっかいていくようだった。
三人目は深夜のコンビニから出てきた。
終電を逃し、ふらふらと歩いていたとき、店舗の明かりに照らされて、透明なビニール傘を肩に担いだ男が、レジ袋をぶら下げて出てきた。やはり、俺と同じ顔。
だが、雰囲気は他の二人と違っていた。Tシャツにパーカー、色あせたジーンズ。髪も少し伸びっぱなしで、無精ひげもある。だが、どこか肩の力が抜けていて、街灯の下を歩く足取りは軽い。
コンビニの袋からは、缶ビールが二本、カタンと音を立てる。傘もささず、小雨の中を歩いていく。
ふと、曲がり角にある小さなライブハウスの前で足を止めた。
階段を降り、扉の前に立ち、ドアを開けるとき、彼は一瞬だけ空を見上げた。まるで自分の胸の内を確かめるかのように。
自由を選んだ俺だ、と直感した。
安定を捨て、やりたいことだけを抱えて生きる自分。きっと収入は少ない。将来も不安定だろう。それでも、熱源のある暗がりへ、自分の足で降りていく横顔は、少し眩しく見えた。
——俺には無理だ。
口の中で呟く。俺は雨を避けるように、逆方向へ歩き出した。足元の水たまりに、にじんだ顔が揺れる。
それから意識し始めると、「ほぼ自分」はあちこちにいた。
公園のベンチで、ホームレスたちと一緒に紙コップのコーヒーを飲みながら笑っている男。
スーツを脱ぎ、介護施設のエプロンを着て、車椅子を押す男。
夜のコンビニで、黙々と品出しをしている男。
バーのカウンターで、カクテルを作りながら客の愚痴を聞いている男。
どの「ほぼ自分」も、完全に同じというわけではない。年齢も少し違えば、髪型も服装も違う。だが、目元や口元の癖、俯いたときの顔の影、そのすべてが、俺にとってはあまりにも馴染み深かった。
七人目を見つけたのは、一週間後の日曜日だった。
その日、俺は珍しく朝から何も予定を入れていなかった。起きたのは昼近くで、カーテンの隙間から漏れる光はすでに白く、現実味のない明るさだった。
洗面所で顔を洗ったあと、ふと鏡を見た。
そこに、七人目がいた。
目の下にうっすらと影があり、髪は寝癖で跳ねている。無印のTシャツ、適当なジャージ。少し猫背で、どこかぼんやりとしている。
この一週間、俺はあちこちの街角で「ほぼ自分」を追いかけ続け、結局何も掴めていない。本当は仕事のメールも来ていたが、返信は後回しにしていた。現実から目をそらすように、他の「自分」ばかりを見ていた。
——こいつは、逃げ続けている俺だ。
思わず、鏡の中の自分を睨みつける。
成功した俺。家族を持った俺。自由を選んだ俺。誰かを支える俺。底まで落ちた俺。それでも笑っている俺。
彼らは、どこか「やり切っている」感じがした。時間をかけてその場所に辿り着き、そこで生きる覚悟を持っている。選んだ結果がどれほど惨めであろうと、そこに立ち続けている強さがある。
それに比べて——俺は何も選んでいない。
ただ目の前の仕事と疲労と不安と、ぼんやりした憧れの間で立ち尽くし、「そのうち本気出す」と何年も言い続けている。何者にもなれないまま、他人の人生をガラス越しに覗き込んでいるだけだ。
胸の奥から、じわじわと嫌悪が湧き上がってきた。
——俺は、こいつが一番嫌いだ。
鏡に映る、何もしていない自分。
他人の人生を眺めてはため息をつき、自分の可能性を全部、頭の中だけで消費してしまう自分。
何もかも“まだ間に合う”と自分に言い聞かせて、結局、何ひとつ変えない自分。
七人の「ほぼ自分」の中で、一番中途半端な男。
そいつを、心の底から憎いと思った。
その瞬間、不思議なことに、他の六人の顔が、少しだけ違って見えた。
大手コンサルのビルに入っていった男の、張りつめた笑顔。
フードコートで家族と笑う男の、ふとした疲れた視線。
ライブハウスに降りていった男の、不安を誤魔化すような喉の動き。
介護施設で車椅子を押していた男の、背中の丸さ。
ホームレスと共に笑う男の、どこか投げやりな目。
夜のバーで客に付き合う男の、笑いの後に残る虚無。
彼らもまた、自分の選んだ人生を、ときどき後悔しているのかもしれない。
「こうじゃなかったかもしれない」と、ぼんやり考える夜があるのかもしれない。
それでも——彼らは、自分で選んだ場所で立っている。
俺は、鏡の前で歯を食いしばった。
もし俺が、彼らを羨ましいとだけ感じるのなら、それはまだいい。
でも俺は、彼らに対して嫉妬と同時に、微かな軽蔑も混じった感情を抱いていた。
「どうせ苦しいくせに」「幸せそうに見せているだけだろ」と。
それは、彼らに向けたものではなく、本当は——何も選ばないで済ませようとしている自分への軽蔑だった。
七人の「ほぼ自分」とすれ違ったこの一週間は、もしかしたら、現実なんかじゃなかったのかもしれない。夢だったのか、幻覚だったのか、それとも心の中で作り上げた「別ルート」の自分たちなのか。
どちらでもよかった。
大事なのは、俺が一番強く嫌悪したのが、鏡の中のこの自分だった、という事実だけだ。
スマホを手に取り、未読メールを開く。
上司からの確認依頼、同僚からの相談、クライアントからの変更要望。どれも、いつもならため息をつきながら後回しにする内容だ。
だが今日は、ひとつひとつに目を通し、返信を始めた。別に「意識高く生き直そう」と思ったわけではない。ただ、この中途半端な自分で居続けるのが、突然、耐えがたくなっただけだ。
午後、俺は家を出た。
道を歩きながら、またどこかに「ほぼ自分」がいないかを探してみる。成功した俺。家族を持った俺。自由を選んだ俺。底まで落ちた俺。どこかで今日も生きているかもしれない、無数の可能性。
だが、その日は一人も見つからなかった。
代わりに、ショーウィンドウに映る俺がいた。少しだけ背筋が伸び、ネクタイを締め直している。まだ何者でもない、何も成し遂げていない、相変わらず中途半端な男。
それでも、
——さっきよりは、少しましだ。
そう思えた。
七人の「ほぼ自分」は、もう二度と現れないかもしれない。
あるいは、俺がまた今の自分から目をそらしたとき、どこかの街角でひょっこり姿を見せるのかもしれない。
そのとき、俺は、誰を一番嫌いだと思うのだろう。
その答えが変わったとき、今度こそ、俺は「ほぼ」ではない、本当の自分になれるのかもしれない。
そんなことを考えながら、青に変わった信号を渡った。



