もう一つの本は、向井毬夫著「額田王の実像」。
前回の本よりは、説得力あるし突飛な感じはしない。
が、三角関係を否定してるので、面白味はなくなるじゃん。
こちらの説は。。。
・「鏡王の女(むすめ)額田姫王」(日本書紀)の文は「女」を後世につけたしたもの。
鏡王、額田姫王が正しい。
鏡王も女性で、2人は姉妹では?
当時は「王」と「女王」が書き分けられてない事がある。
ちなみに鏡王女は中臣鎌足の嫡室だが、その前に天武の恋人では?
(天武が在位中に彼女の見舞いに行っている、普通臣下の未亡人の見舞いに行かない)
・「采女」(地方豪族の娘で容姿端麗な者を選んで宮中の手伝いをする、身分低い)ではない。
「日本書紀」の天武皇妃伝で、額田王の次にくる尼子娘(高市皇子の母)の父は地方の大豪族。
・額田王は皇族。
推古天皇の幼名が「額田部皇女」である。この名前の由来は確定できないが名前が似ている。
大和国平群(へぐり)郡の額田郷に関係のある王族で、ここで育ったのでは?
「姫王」を称する7例のうち、5例は皇孫女で残る2例が「鏡姫王」と「額田姫王」であるので、
2人とも皇孫である可能性が高い。推古の皇孫では?
天武との娘の十市皇女は天智の第一皇子の妃になっている。
後継者にしたかったが卑母の出である皇子の身分上昇のために、天智が選んだ妃のはずなので、
妃の母も卑出のはずはない。
・・・・ただね、それならなぜ、天武の妃の上の序列に入ってないのか?
下の方にいるのよね。天智の娘よりは下でもその次にいてもいいのに。
由緒正しき女性なら、出自を書くのが普通、ないのは変。
前の本のように編纂した当時の支配者・持統が邪魔して、痕跡を消した?
彼女は、天智の娘で、天武の妃なわけだし。
うーーん、やっぱり謎。
・天智の妃ではない
妃とされる根拠は有名な大海人皇子との歌。「日本書紀」の天智の皇妃に入ってない。
歌の当時天武46歳、額田38か39歳。
額田が天武にあてた歌では?
別に「額田王、近江天皇(天智のこと)を忍びて作る歌」と言う記述のある歌がある(「万葉集」「日本書紀」)
が、最初は天皇としか書いてなかったのでは?天武を偲んだ歌では?
・・・・・
こちらの説のほうが、説得力あるかな。
少なくとも身分の低い女官や巫女ではないと思う。
2人の天皇に愛されたってのは・・・うーーん、ドラマチックではあるけど、どうなんだろ。
そして、当時の美人ってどんなんだろうね~