こんにちは
ノザワユリコです。
昨日は鰻を食べました。自分から「あー鰻が食べたいな」と思いまして、そんな欲求が戻ったことが嬉しくて、実においし〜くいただきました。
鹿児島県産の鰻です。前回のブログでは鹿児島のことを、両親の故郷であり、縁のある土地なのだけれど、男尊女卑だから、田舎だから、恥の意識が強い土地だから、
大好きで大嫌いと書いたのですけれど、
鹿児島産の鰻は大好きです。ハハハ。![]()
とろけるような柔らかさ、実に美味
スタミナつきそう、これで元気になれそうな気がします。![]()
病気だった2週間、全く食欲がなくて、
薬を飲むために何か食べなきゃと、義務感だけで、
果物とかヨーグルトなど食べれるものを流し込んでいました。
ほんとにつまんない、生きてることが味気なかったです。
食べ物を思い浮かべて「○○が食べたい!」って思うこと。
それを食べられて、「おいしい!」って感じられることって嬉しいことなんだ。
これこそが「今を生きている」ということなんだと思います。
「お腹いっぱい食べる=生きる」だと思います。
子供の頃は食が細くてですね
「ちょっとしか食べない=生きるエネルギーが弱い」でしたねえ。昔は。
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今日は、最近読み終えた小説、湊かなえさんの小説、「母性」について書きます。
映画化されると聞いて、すごく興味があって、まず原作から読もうと思って、
読み始めて大分時間が経ってしまいました。
ひどい風邪をひいて身体が弱った為、映画館にはまだ行ってません。
読後感は、「これってすぐ身近にあるホラーやん、怖〜い!」です。![]()
登場人物がみんな怖いのです。
登場人物が言うセリフが怖い!
けれど、そのセリフ、よく耳にするような
過去にもよく耳にしていたような
少し前の自分なら、当たり前に思っていたような
一見、変だと思わないでスルーしてしまいそうで
でもよー考えてみたら、実に怖いセリフがちりばめられています。
これが祖母演じる大地真央、母演じる戸田恵梨香、娘役の永野芽郁の口から
発せられるのだろうと想像するだけでも怖い!
非の打ち所がないような美貌、上品な立ち振る舞いとその発言のギャップが怖い!
もし、自分が心理を学ぶ前の、脳みそがロックされたような状態であったなら
違和感を感じなかったかもしれないと思うことも怖い!
この小説の世界観に違和感を覚えない人も多数いるのではないか?
人は誰でも母親がいますよね。
けれど、子供は母親を選んで生まれて来れない以上
子供を愛せない「子供のような母」を持ってしまったら
子供は、どんなに手厚く世話をされたとしても、
その子供はその母親に愛着を感じることはない。
そして娘は母への怒り憎しみを持ちながらも、生涯、母からの愛情を求め続ける。
心理的に成長することは出来ない。
そして、その悲劇は誰にも理解されない。
何故なら、家族は密室だし、父親とその親も同じように問題があることが多いから。
その家族は一見幸せそうだし、素敵に見えるから。
理想的にすら見えるから。
その素敵に見える家族は、自分の感覚感情を押し殺して、
他人に見せる為に、素敵な自分を演じている。
そうやって自分を否定している自覚がない。
自分の内面に怒り、憎しみがある自覚もない。
自分の抑圧した怒り、憎しみが生きづらさの原因であり
周囲は敵ばかりという無意識の敵意にも無自覚で、
その抑圧した怒りは一番弱い者に向けられる
家族の場合は子供に向けられる。
母は愛情とお世話を混同している。
母は愛情と執着を混同している。
愛情ではなくて執着という依存
手厚いお世話は、自分が満足する為であって愛情からではない。
そのことがわからない。
母親自身も本当の愛情というものがわからない。
そして自分のこともわからない。
だから母は言う「私は子供を愛しています」と。
自分の何もかも(感覚感情、意思欲求)を無くして、他人から見た自分が素敵に見えるように
他人が何を望んでいることがわかることが、母の望む「いい子」である。
「だからそんな子供に努力してなりなさい。」
「そうじゃなかったら、私は要りません。」
人の期待に応える為には、自分の意志や欲求を持っていたら応えられない。
だから子供は自分を殺し、母の思うような自分になることだけを考える。
それは、母親の望みを叶える役割
私を喜ばせて
私を満たして
私の欠乏感を埋めて
私の無価値感を埋めて
根底にあるのは母の無価値感
無価値だった祖母は母にそれを求め
母は子供にそれを求める。
「私がそうしたように、あなたもそんな子供になりなさい」
「私が自分を殺して生きてきたのだから、あなたも自分の意志なんて持っちゃダメ」
他人から認められるような人になりなさい。
他人に褒められるような人になりなさい。
他人が求めるような理想の人になりなさい。
これってすぐ身近にあるホラーだと思うのです。
当たり前のように、とっても美しい容姿の母は、静かに強要する。
「私がそうしたように、自分を殺して生きなさい、それ以外はないのよ」
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作中より、怖いなと感じた文章を抜粋して紹介します。
(母の回想)
「子供の頃から絵が上手いとは思っていたけれど、こんなにも描けるなんて。心を込めて描いたのね。
心を込めて、子供の頃から変わらない、母の褒め言葉です。それに対する、私の返事も決まっていました。
「バラはお母さんの好きな花だから、お母さんのために描いたのよ」
お母さんのために、絵、作文、習字、勉強、運動、すべて母に喜んでもらいたくて、褒めてもらいたくて、幼いころから頑張ってきたのです。
(母の回想)
「私は母の分身なのだから、同じものを見て違う思いを抱くなどあってはならないことです。」
(母の回想)
私のように、誰からも愛される子供になりますように。
そのためには、私が、一番に愛してやらなければならないことも、わかっていました。
母が私にそうしてくれたように。
娘の成長に合わせて、他人を思いやる心も教えました。公園で泣いている子がいると、あの子はどうして泣いているんだろうね、と娘に問いかけ、寂しいのかなと返ってくると、「じゃあ、一緒に遊ぼう、って言ってあげたら?」と一番適切な答えを教えてやるのです。
(略)
そんな質問を、日々の生活の中で優しく投げかけていくうちに、娘は私の思いを深くくみ取り、私が一番望む答えを返せるようになりました。
(娘の回想)
母は私に背を向け、ミシンに向かっている。カタカタという規則正しい音に合わせてお絵描きをしている私を、ちょっとおいで、と呼び、縫いかけの洋服を身体に当てると、かわいいわ、と満足そうに頷く。母は同じ生地を自分のからだに当てていた。出来上がった服を、お嫁に持って行ってね、とも言っていた。
おそろいの服を着てバスに乗り、おばあちゃんの家へ行く。道中、母はこう言っていた。
「おばあちゃんを喜ばせてあげてね。お元気ですか?とか、寒くないですか?とか、おばあちゃんが何を言って欲しいと思っているのかを、よく考えるのよ。」
「はい、ママ」
私はちゃんと返事をする。何を言おうかと、バスに乗っているあいだじゅう考えていた。
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この文章から、この小説の怖い世界観が伝わるでしょうか?
少しの文章だけじゃ、ちょっとわからないですかね。
この母親は心理的に子供のまま。だから子供を愛する能力がないのです。
理想の母親を演じ、理想の子供を強要している。
心理を学ぶ前の私も、お世話を愛情だと思っていたし
母には手作りの洋服を作ってもらっていましたし、
私も母が満足するからと、自分も嬉しいふりをしていました。
私はこんなにも母から大事にされているのだと。
けれども本当は嬉しくない。そう思ってしまう私は悪い子なんだ。
いつか罰が当たる、そう思っていました。
親に全面的に依存しているから、
本当の欲求意思を出したら嫌われて生きていけない。
親は私にも意思や欲求があること自体、理解していない
理解しようともしていない。親はいつも自分のことしか考えていない。
そんな風に思っていたけれど、
そんな風に思ってはいけないのだとも思っていました。
自分の本音をごまかして、母のことを好きだと思い、いい母親だと信じて疑わなかったし
世間的に理想のいい子になることを目指して頑張ってきたのです。
そのことが、生きづらさの原点だったと気づかずにいたのですね。
ぜび、小説を読んでみて下さい。
映画、間に合ったら観てみたいような、既にお腹いっぱいのような。
この小説の中で、母は、「娘は」「娘が」と言うだけで、娘の名前を全く呼ばないし、出さないのですね。
最後に一回だけ「さやか」って叫ぶのですけれど、このことが作者、湊かなえさんなりの、母が娘を愛していないことの間接的表現としての手法なのかなあと思ったりします。
親子共依存の怖さ、自分を殺して生きることの悲惨さ、娘の持って行き場のない怒りや憎しみ、そして父親の狡さ、
すぐ身近にあるホラーについて、理解していただけるのではないかなと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
