こんにちは
ノザワユリコです。
サッカー
、ワールドカップが始まりました。![]()
私、サッカーファン歴かれこれ35年でして、大好きなのです。(観る方)
先日の日本戦、優勝候補のドイツに歴史的勝利。
もう嬉しくて、夢みたい、感激しました。
ドーハの悲劇を観てましたから、あの時の無念を
ようやく晴らした森保監督は感無量でしょう。
私もサッカーファンの1人として今の日本代表って強いなあ!と
頼もしく思いますし、めちゃめちゃ嬉しいです。![]()
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今日は、抑圧した「憎しみ」の行方【投影】
というテーマについて書きます。
前回のブログ、心を守る為にやっていたこと②【抑圧】の続きになります。
前回は「抑圧」した「甘えの欲求」と「憎しみ」について書きました。
両親に(特に父に対してですが)「甘えたい」気持ちと「憎い」気持ち
真逆の感情があるのですが、
アンビバレントな感情がいつもあって苦しみました。
すごく怖い、でも甘えたい
それが叶わないから憎い
満たされない「甘えの欲求」
甘えを満たしてくれない「憎しみ」
この真逆の感情をどちらも抑圧します。
父にこの感情をぶつけることは出来ません。
父は怖すぎるし、子供は無力で親に依存していて、
依存してる相手には、怒りを向けられないのです。
子供はどんな親であっても愛しているので
憎むことが出来ないのです。
このことは前回のブログに書きました。
良かったら読んで下さいね。
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人は感情を抑圧するどうなるのか?
今回は「憎しみ」の抑圧について書きます。
抑圧した「憎しみ」は「投影」し様々な問題を引き起こします。
「投影」とは、防衛機制の一つです。
投影とは?
自分が抑圧して見ないようにしている嫌な感情や思いを無意識に周りに投射して、批判したり否定したり拒絶したりすること。自分の中にある否定的な感情を他人の中に見つけては、他者を批判するのも同じ。
つまり、自分の中に「憎しみ」があるのに、目の前の人に、自分が憎まれていると
思い込んでしまうのです。
周りは敵だらけ
そうなると、誰も彼もが敵に見えてきます。
「私はあの人からよく思われていない」
「きっとあの人は私をバカにしてるのよ!(父が私をバカにしたように)」
実は自分が人を見下しているのですが、これに気づきません。
いつ人に憎まれるのか?
いつ人から悪意を向けられるのか?
油断も隙もない(だって父からそうされてきたから)
だから絶対に人には嫌われないように
何としても人に気に入られたい
そんなことを思って、いつも人の目を気にして
怯えているのです。
そうすると人が怖くなって生きます。
そしてそんなビクビクしている自分のことも軽蔑しているのです。
怒ってる人、意地悪な人が怖い
(父に似た)怒鳴る人、怒りっぽい人が怖いのです。
男の人というだけでも怖いのです。
怒鳴る人、慇懃無礼な人、自分に向けられた訳でなくても緊張します。
そして人のほんのちょっとの意地悪やジョークが、ものすごく気に触るのです。
人の悪意に対して、過剰に反応してしまいます。
(父が私をいじめた時のように)思い出して、体が固まってしまいます。
目の前の人は父ではないのに「投影」で、目の前の人=父になっているのです。
こうなってくると現実は常に、父みたいか?そうでないか?
そんな歪んだ見方をしているのです。
現実的な目の前の人物をありのままに捉えられません。
自分の歪んだ世界、父のように嫌ってくる、攻撃してくる、いじめてくるという妄想で
世の中、人を見てしまいます。
あー怖い!、あー嫌だ!
いつも頭の中に
父を住まわせているのですが、これも全く自覚なしでした。
ここでも怒りは相手に出すことが怖いので、「抑圧」します。
そうなるとまた敵意や憎しみは膨らんでいきます。
ドライバーが強まる
ドライバーとは、
人に勝て!
急げ!
人の期待に応えよ!
完璧であれ!
頑張り続けよ!
という命令を自分で自分にかけることなのですが、
私はいつも↑このような感覚があり
「頑張って生きている」つもりでした。
これは、憎しみを原動力にしていて、
今の自分と違う自分にならなきゃと思っていました。
そうでないとまた、父にいじめられたように、人にいじめられるから。
無意識でしたが、自分の憎しみを癒すためには、今のままの自分じゃダメだ
そう思っていたのです。
人からは「頑張り屋さん」だと評価されたり、褒められたりしましたが、
いつも自分を否定して無理しているから、本当はしんどいのです。
自分を急き立てて、今の自分に「ダメ出し」をして
つまり 自己否定を強化する頑張り方をしていたのです。
疲れやすい
感情の抑圧の為に、人はものすごくエネルギーを消費します。
その為、私はすぐ疲れるし、エネルギー切れを起こしていました。
些細なことですぐ消耗する感覚がありました。
何となく不調、イライラしやすい、不定愁訴がありました。
「頑張りたい気持ち」と、すぐに消耗するのだから「疲れないようにしたい気持ち」
ここでもアンビバレントな感情がありました。
「嘆き節」炸裂と反転
振り返ってみると、私はいつも過去を嘆いていました。
ぐずぐず言って、可哀そうな人アピールをしていました。
「誰かにわかってほしい」「どうせ誰にもわかってもらえない」
こんな気持ちからでしたが、自分でこの気持ちをどうにかできるとも思えない。
だからいつも嘆いていました。
不機嫌で、拗ねていました。
この嘆き節は「憎しみのガス抜きみたいなもの」だったと思います。
ただ嘆いていたい、そうしたら少し楽になった感じがしたのです。
実際感じがしただけで、何も変わりませんでした。
でも当時の私は嘆かずにいられなかったのです。
そして、「憎しみ」を抑圧していると、他の誰かを憎んだり、人に怒りをぶつけたり、
誰かをいじめることで自分の憎しみを晴らすことをしがちです。
そんなことを人はやりがちです。
憎しみ、怒りの「置き換え」です。
例えば、SNS上で、特定の人物を匿名で誹謗中傷したり
自分より立場の弱い人に怒鳴ったりする。
よくコンビニの店員さんにキレてる客とか
図書館で受付の人に怒鳴ってる老人を見かけたことがあります。
ああいう「置き換え」を、弱い者いじめみたいなことを
私は出来ませんでした。(少しはやっていましたよ。夫に
)
だって父が反面教師だからです。
それだと父と同じではないか。だから絶対私はやらない。
(父も外ではいい人だったので、外ではそういうことをする人ではありませんでした。
その代わり、家族、私や妻に「置き換え」して怒りをぶつけていました。)
それに夫に「置き換え」で憎しみをぶつけたら、見捨てられるかもしれない
そう思うと怖くて、やっぱり抑圧するしかないのです。
なので私は自分で「置き換え」を禁止していました。
そうするとどうなるか?
その「憎しみ」は自分に向かいます。
これを「反転」といいます。
自分を責めて、自分をいじめて、
自分を憎んでいました。自己憎悪です。
出産後にかなり重いうつ病になったのですけれど、
原因ははっきりわかりません。でも「反転」が関係あるなと思っています。
このようにして、少し前の私の世界観というのは、
誰のことも好きじゃない。
誰も彼も嫌いな人ばっかり。
周囲は敵だらけで
何より自分のことが大嫌いでした。
生きることが辛くてしんどい
でもこんな本音を絶対に知られたくない
みんなも人生をそう捉えているのだろうか?
それとも私だけなのか?
「誰かに答えの聞きたい」「でも誰にも聞けない」
常にアンビバレントです。
目の前には、やること(仕事や家事や育児など)がたくさんあるので、
とりあえずやらなきゃと生きていました。
楽しいことは実際には、たくさんありました。
でも心から笑えない感覚がいつもありました。
あの時の私の笑顔は不自然でぎこちなかったなあ、顔つきも固まっていたなと思います。
今はだいぶ緩みました。![]()
「抑圧」は「投影」されます。
それが様々な問題を引き起こします。
人間関係が上手くいかない、健康を損なうなどの問題となります。
「憎しみ」を抑圧していた私は、世の中が敵になり、自分を憎みました。
でも、リトリーブサイコセラピーに出会って、セラピーを受けて、心理を学んで
人生は楽しむ為にある
だから自分を楽しませて生きよう
世の中は敵ばかりではない
自分を責めるのはもうやめよう
長い時を経て、ようやくそう思えるようになったのです。
続きはまた次回に書きたいと思います。
満たされなかった「甘えの欲求」について書きたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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