また、ご無沙汰してしまいました。
前回が5月の更新だったので、2ヶ月も経ってしまいました。
その間に、2つの別れがありました。
思い出の写真と共に振り返りたいと思います。
今回の写真は、2007年に神奈川県大和市の泉の森とふれあいの森で、私が両親と最後に撮った古いものです。
過去にブログにアップしたものかもしれませんが、ご了承ください。
2021年5月30日、私の父が他界しました。
86歳で、今年の9月に87歳になるところでした。
父は過去に前立腺癌と脳梗塞を患いましたが、どちらも父の命を奪うことはありませんでした。
↓両親揃って最後に出かけた泉の森では、カキツバタやアヤメが咲いていました。
前立腺癌であることが発覚した時は、すでに末期で手術をしても意味がないと医師からいわれ、ホルモンのお薬を飲むだけでした。
父と同居する兄は、最初は本人に癌であることを告知するつもりでした。
でも、どうしても改まって言うことができず、バレた時に言えばいいと、流れに任せることにしました。
私は自分がもし癌になった時は、告知してもらうほかないと思っていたので、もしかしたら私の口から言うことになるかもしれない、と覚悟しました。
久しぶりに会った父に、「自分の病気の事、知りたい?」と訊いてみました。
すると、父はテレビを見て、別の話を始めました。
ああ、知りたくないんだな、と思い、そのまま告知するのをやめました。
兄は、流れに任せると決めても、それでも言わなければならないのか?と、葛藤していたみたいだったので、本人が知りたがっていない、と話すとホッとしていました。
兄はその頃、過酷な労働環境にあり、自身のこれからに悩んでいた時期でもありました。
度々、父を病院に連れて行ったり、医師の話を聞いたりしなければならないので、そのために職場を変えると、不思議なことに、父の腫瘍マーカー値がみるみる落ちていきました。
そして、ほぼ寛解状態にまで落ち着きました。
医師も驚くような奇跡でした。
安堵と同時に、兄と私には、大腸癌で手術と抗癌剤を受けた末に亡くなった母のことが思い出され、癌の標準治療に対する疑いの気持ちが深まったことは否定できませんでした。
↓14年前は、やたら動き回るこのアオサギに夢中で、カメラを向けていた覚えがあります。
それから約1年後、デイサービスに行っていた父が、脳梗塞で救急搬送されたと連絡が来ました。
ここでも奇跡が起こりました。
処置が早かったために、全く後遺症なく快復したのです。
この時、父は生かされているなぁ、としみじみ思ったものでした。
↓シジュウカラが大きな虫を見せてきて、ちょっと戸惑ったり、でも撮れたのが嬉しかったり…。
それからまた時間が経ち、ある日、父がベッドから起き上がれなくなったと連絡がきました。
とにかく、酷く腰を痛がるのだが、癌も脳梗塞も悪さをしていないし、痛み止めも効かない、どうしたものかという状態だと言います。
急いで向かうと、意外と元気な父が待っていました。
何となく、内臓系の痛みではなく、整形外科的な痛みではないのか?と思いましたが、病院に電話で問い合わせると、とにかく連れて来い、という返答でした。
私と夫と兄とで、何とか車に乗せて、病院に連れて行きました。
泌尿器科に連れていかれ、私は、違うんじゃないかな~?と思いつつも、医師が症状を見たら、別の科に行かせてくれるかな?と、そのまま様子を見ました。
その日は、父の話を聞いて、痛み止めの薬を変えただけでした。
予約をしていない日は、画像診断も何もできなかったらしいのです。
このためだけに、痛がる父を無理矢理連れて来たのか、と病院に対する苛立ちがあったことを記憶しています。
まぁ、画像診断したところで、疑っている箇所が違うので、どうだったかな?という気持ちもありました。
↓緑と鳥たちに恵まれた森ですが、こんな低い所を飛行機が飛んできて、驚くような森でもありました。
その数日後、父はまた酷い痛みに耐えがたく、救急車で搬送されたと連絡がありました。
救急車に乗って、やっと全身診てもらえたのか、腰の骨の数か所に圧迫骨折があることが分かりました。
それから2ヶ月くらい入院し、無事、せん妄もなく退院してきました。
しかし、それから、動くのが辛いのか、ベッドから起きて立ち上がることが少なくなり、やがて寝たきりになり、意識が朦朧とする日が出てきました。
寝たまま起きない日がある、もうそろそろかもしれない、と兄から連絡があり、実家に行きました。
父は顔を歪めて、目をつぶっていましたが、私が到着したことは分かっているようでした。
しかし、その日のうちに、うわ言が多くなり、手も動かすようになりました。
義姉は、昨日まで静かにしていたのに、今日は元気ね、と話していましたが、私の胸の内には、これは亡くなる前日に起こるせん妄ではないのか?という、思いが生まれてきました。
訪問看護の医師からは、出せる薬がない、このまま自然にその時を迎える方がいい、と言われていたそうです。
私に帰る時間が迫った時、恐らく今生の別れになるだろうと最期の言葉を交わしました。
その時、ずっと目をつぶっていた父が、一生懸命、目を開けて私を見ていました。
ああ、父も分かっているのだ、と思いました。
↓巣箱から顔を出すムクドリさん。
翌朝6時前に、父が永眠したと連絡が入りました。
このような最期だったので、私たち家族は、父は老衰で亡くなったと思っています。
兄夫婦のお陰で、自宅で最期を迎えられたのが、幸いだったとも思っています。
しかし、父が穏やかな最期を迎えていた頃、自宅ではバロンにも、その時が近付いていました。
鳥写真索引ページはこちら(1)と こちら(2)です。
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ここまでご覧いただきありがとうございました